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良い加減

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こういうところがデジタルカメラは面白いと感じます。 それと同時に、 人間の目の良い加減さも。 この良い加減は、本当に「良い」加減なのでしょう。 便利です。 ロボットが共存する社会になったら、 こういうところにも、 違う考え必要そうです。

美味しいという力

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美味しいお菓子をいただきました。 美味しいものを食べる、 ただそれだけでも幸せな気分になります。 現金といってしまえばそれまでですが、 人間とはかくもシンプルなものなのか、と。 二十数年、一人暮らしをしてきて、 その中でどれだけ自炊してきたのでしょうか。 外食やコンビニに頼ることはあっても、 如何せん、濃い味付けが苦手なこともあり、 周期的に自炊に戻っていました。 自分の舌にあった食べ物、 ただそれを食べることの喜びのために。

実現する難しさ

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マスクが届きました。 ネットではだいぶ叩いている記事を拝見しましたが、 急遽、一つのプロダクトを制作し、 日本中の各家庭に二つずつ確実に配達する、 という行為が、どう考えればそんなに容易にできるのでしょうか。 「つくる」ことも、 「とどける」ことも、なかなかにハードルが高いことです。 現場サイドの人間としてはそう感じます。 しかし、だからといって、諸々が許されるかと言えばそうではない、 とも感じます。 難しく、 センシティブな内容です。

ピントに意思を込める

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シャンデリアを下方から撮影したものです。 私の目が良かったら、 もう少しピントが合うのかもしれない、 と考えるとやはり視力矯正を考えた方が良いのか、と感じたりもします。 幸い裸眼で生活できてはいるのですが、 もっともっと、と求めればきりがないのかもしれません。 今使っているKonica FMは、 ピントを合わせるという行為もまた、 とてもアナログで、完全に人間任せなものです。 つまり、人間の意思を介在させることができる、と考えると、 大変面白く興味深くも聞こえます。

共存

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自然と人間の共存、 そんな大層なものではないかもしれませんが、 木の存在を許しつつ囲いをつくるところは、 とても好印象にうつりました。 得も言われぬ力を感じます。

春への準備

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今朝、大学の門のところを通った時に、 緑の上にフワッと乗ったような白が目を引きました。 あぁ、そういえば去年も写真を撮ったなぁ、と思いながら、 今年もシャッターを切りました。 去年よりも少し早くに咲き始めているようですが、 人間様がウイルスだコロナだと右往左往している中、 自然はいつも通りに春への準備を始めているようです。 見習っていかなければ、と考えさせられました。

鳥という存在

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普段カメラを持って歩いていると、 人間の居住区に、人間の次に最も多く存在している生物は、 鳥類なのだと感じます。 考えてみれば当たり前のことですが、 気付かなければ気付かぬままに生きて行っても、 何も問題がない事柄でもあります。 この大学がある山裾でも、 電信柱が立ち並ぶ都会の真ん中でも、 様々な種類が暮らしています。 そうして考えてくると、 その量が多くても少なくても、 何かがおかしい、ということに気付けそうです。 そういう事柄は、 色々なところに隠れているのかもしれません。

対象の特定方法

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写真はいただいたお菓子のパッケージです。 レンズ上の赤丸と良い、 Leicaの特にM6をモチーフにしているんだろうな、 とは思うのですが、ちょっとした特徴から、 違うモノにも見えてきます。 というのも、レンズ上の部分が斜めにカットされていることから、 VoigtländerのBessaのように見えるのです。 どうでも良いこと、と言ってしまえばそれまでなのですが、 人間が何かを見た際に、 形態のどの部分から対象を特定しているのか、ということについては、 個人差があるはずです。 それをうまくコントロールできていれば、 ブランドにおける統一性や一貫性を示すことができるのではないでしょうか。 これは研究テーマの一つに成り得ると考えています。

見方の変化

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街中を歩いていて撮った一枚です。 今日も街中を歩いていました。 まだまだ知らないことがあるなぁと思いながら、 歩いていました。 人間が一生のうちで歩ける距離の、 なんと限られていることか。 フィルムカメラで撮るようになって、 今までよりも色々な目で周囲を見るようになりました。 関わるプロダクトによって、 見る対象も、その見方も変わることがあります。 普段から見ていればもっと楽なのに、と、 その都度考えてしまいます。 今回の見方の変化がそれの一助になればと感じます。

明暗

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iPhoneのカメラとフィルムカメラ、 もちろん違いは多々あります。 中でも、暗いところと明るいところが共存している写真については、 デジタルの補正のすごさをひしひしと感じます。 手ぶれ補正等についてもすごいとは思うのですが、 それは、まぁ、意識次第でどうにかなるか、と。 しかし、明暗がくっきり分かれている場面については、 どちらかは切り捨てなければなりません。 そういう意味では、人間の目そのものがすごいのだな、 と、これまた当たり前のことに気づかされたりします。

生きているものを撮る

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人間や動物達、そういうものを積極的に撮るようになりました。 もちろん、肖像権を尊重することは忘れていませんが、 フレームの中に人や生き物が入ることで、 写真が俄かに生きてくるように感じます。 多分、建物や植物に比べて、 人間や動物は変化が著しいためだと思いますが、 それだけに本当に難しいです。 また、演出してしまうと、一気に冷めてしまいます。 やはり、土門拳の「絶対非演出の絶対スナップ」が重要です。

変化するもの

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大学生の頃、一時期、使い切りカメラを使っていたことがありました。 しかも只管雲ばかりを撮っていました。 その時にカメラの魅力に取り憑かれていたら、 大変なことになっていたかもしれません。 幸いにも(?)散々撮ったところ、満足したのか、 ファイリングだけして自分の中でのブームが終わりました。 コンテナの中にあるはずなので、 それを見つけてみても面白いなと考えています。 今、改めてフィルムカメラに興味を持ってみると、 確かに雲は面白い対象だと感じます。 毎日、目に見えて形が異なるものは、 実はそんなにないのかもしれません。 もちろん、全てのものが日々変化している、ということはわかりますが、 写真で留めておこうと感じるほどの変化は、という意味です。 そう思って周囲を見てみると、もう一つ興味深い対象があります。 人間です。 レンジファインダーを使ってスナップショットを撮ってみよう、 と考えた時、人の動きほど面白く、難しいものはない、と考えています。 最近取り切ったフィルムは、 ネットでの現像を試みているため、まだしばらく帰ってきません。 どんな風に写っているのかな、と思いを巡らす時間もまた、 興味深いと感じるようになりました。

慣れ

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人間は慣れる生き物です。 当初、Hexanon 52mm F1.4を使い始めた時は、 その視野の狭さに驚き、 どう撮ったら良いのか???と悩んでいました。 しかし、そのまま撮り続けていくとどうやら人間は慣れてくるようで、 今度は後から入手したHexanon 35mm F2.8の視野の広さに戸惑っています。 そんなわけでこの写真は、Hexanon 52mm F1.4を使っています。 暖かい光加減はたまたまなのかもしれませんが、 それも含めて好きな印象になりました。

玉ボケ

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これは、Konica FMで撮った写真です。 背景にある光が、玉型にボケている状態を、 玉ボケと呼ぶようです。 画像編集ソフトでぼかしてもこのようにできません。 (今なら色々なフィルタでできるのかもしれませんが) 質があまり良くないレンズでボケることによって生じるようです。 でも、それがまた、良いなぁ、と感じて見ています。 人間の目ではこのようには見えません。 見ようと思って意識がいったらピントが合ってしまいますし、 視力が弱くてボケている場合は、全体がぼやっとするだけです。 これもまた、カメラの目で見える世界のようです。

自動調整

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夜間、自動車が通っているところを、 なんとか撮ろうとした一枚です。 ピンホールでは難しい、ということもありますが、 寧ろ、この写真を見て感じることは、 人間の目の性能の良さです。 夜間に暗いとはもちろん感じるわけですが、 生活が困難なレベルにはまだなりません。 そういった調節を自動で行なっているということに、 人体のすごさを感じます。

実家の畑で採れるもの

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実家から写真が届きました。 昨日採れた夏野菜、とのことです。 季節ごとの食物を摂取するという行為は、 まさに人間が古くからやってきたことです。 その時、そこになるものを食べるより他になかった、 ということが始まりだとしても、 それが最も効率良く生活を回していくことができるわけです。 つまり、人間の体も、そのように出来上がっていきます。 しかし、保存したり、いつでも収穫できるようになったりした現代、 この生活が長く続けば、人の体もまた変化していくことでしょうか。 それは、なんとも寂しいように感じます。

岡山を外から眺める立ち位置

ある方から、 「あまり中に入ろうとしない方が良い」というお話をされました。 私自身、新しい土地に来たわけですから、 少しでも早く中の人と近い距離で接し、 中の人間として動けるようになりたい、 と考えていたこともあり、ちょっと驚きました。 その方曰く、 外から来た人間として、外からどう見えているか、 その視点(eye-point)を失わないようにしてほしい、 とのことです。 客観的に観る目を常に持っておく、 それは、ともすれば焦って中に入ろうとしてしまうことで、 忘却してしまう重要な視点の在り方だと感じました。

知ること

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ひめゆりの塔、という名前は知っていましたが、 現物を見るのも、それがなんであるのかも、 理解はできていませんでした。 今回、宿泊場所の関係から立ち寄ることができ、 駆け足でしたが、大筋を拝見することができました。 経験していない人間が、 いかにそのことを伝え聞いても、 本筋のところ、一番大切なところは理解できないのかもしれません。 そうであったとしても、表面だけなのだとしても、 知っていかなければならないのだと、 感じ、考えさせられました。 いかに自分が何も知らないのか、 それは、せめて知ろうと思えば知ることができることがたくさんあります。 機会もあります。 やるかやらないか、それだけなのだと意識させられた時間と場所でした。

† じゃんけん †

英語のドラマを見ている中で、 登場人物たちが「じゃんけん」をするシーンが出て来ました。 日本では何かを決める際に比較的よく行われる行為ですが、 海外ではコイントスをすることが多く、 じゃんけんは稀、とのことです。 以前、英語の授業でも習った気がするのですが、 アメリカの一般的なじゃんけんの手は日本と一緒、 Rock-Paper-Scissorsのようです。 調べてみると、世界中で様々な方法があるとのこと。 特に、フランスは手が4種類だったり、 アメリでは101種類の手があるものも。。。 この辺りの詳細は様々な文献にお任せするとして、 重要なことは、何かを決める手法についての考え方です。 時代劇などをみると、「半か丁か?」というシーンがありますが、 あれもコイントスと一緒で、50%のどちらを選ぶか、というものです。 人間は何かを決める時、 考えても考えてもダメな時、 どれを選ぶか、という運に頼る、ということが、 少なからずある、ということになります。 その中でも、コインやダイスという道具を用いるものと、 人間の体を用いるものがあると思われますが、 どちらも意思決定のタイミングが異なるだけで、 「自分自身」が「決定の根拠のないところ」から「自分で選ぶ」ということが 共通要素です。 こういった決め方をするのは人間だけなのでしょうか?

† 操作性 †

昨日、たまたま食事の時にテレビを見ていたら、 数人でテレビゲームをやっているところを放映する番組をやっていました。 小さい頃からそういった類のゲームにはあまり親しみがなく、 少しやってはみても、今一つハマる、ということはありませんでした。 その理由はちょっと置いておいて、 彼らの手元に意識がいきました。 ゲームのコントローラー、その外観について、 多分、製造メーカーは非常に研究を重ねているのだろうな、 ということを考えていました。 一方、昨今ではスマートフォンでできるゲームが増えています。 私はiPhoneしか扱っていないため、 Androidの方は全くといって良いほどわからないのですが、 少なくともiPhoneについては、教育上問題があるようなものは アップできないようになっているはずです。 様々なゲームがあるわけですが、 いずれも画面へのタッチだけで操作できる、 ということと、 昨日見た、コントローラーの形状、 人間の適応能力は本当にすごいものだと感じます。