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『memorandum』     

 Knockdown

ノックダウンについてまとめます。 産業界・製造業におけるノックダウンとは、 ノックダウン構成・生産のことを指します。 “knockdown”の意味は、まさにボクシングのそれです。 打ち倒される、つまり、商品や製品が打ち倒されるということは、 バラバラになっているということです。 分解された状態=可搬性に優れている、 ということで、輸送コストが削減できます。 大きなモノはもちろんですが、 組み立てられた状態で運ぶと傷が付きやすいモノなども、 分解して梱包し、搬送することには利点があります。 デザインとして重要なことは、 分解することを前提につくる、ということ。 さらに言えば、より容易に組み立てることができるように製造することで、 トータルコストを抑えることができます。 多数の部品からつくられているモノ、 特に重工業製品に対して用いられることが多く、 自動車などはその好例です。 重工業製品に対して用いられているのには、 分解して運ぶ、以上に利点があるからです。 その時に考えなければいけないのは、 「ライセンス生産」との違いです。 ライセンス生産とは、 ライセンスを提供することを前提に行う生産です。 つまり、ある企業が開発した製品の設計・製造技術を、 ライセンス料を支払うことで獲得することができる生産方式です。 上述のノックダウン生産では、 組み立て方や組み立て技術は獲得できますが、 組み立てているそれぞれのパーツの製造方法はわかりません。 それぞれはあくまでも生産するための方式でしかありませんが、 そこには、企業間の関係や、業界内の関係が、 ひしめき合っているようです。

『自己を見つめるデザイン』

 パターンの蓄積

最初は行き当たりばったりでつくっていても、 しばらくその状態が続くと、 ちょっと様子が変わってきます。 どう変わるか。 これは勿論、今だから客観視できることですが、 つくりためていく中で、 いくつかのパターンが、 頭、または見えるカタチで目の前に、 できてくるのです。 最も単純でわかりやすいことを例にとれば、 正方形の折り紙を斜めに折ると、 直角三角形になる。 誰でも知っていることです。 当たり前のことです。 それを少し発展させると、 斜めに二回折ると、 袋状にしてつぶすことができます。 (なんとなく想像がつきますでしょうか) 割り箸鉄砲で言うなら、 日本の割り箸の間に、 斜めに輪ゴムをかければ十字架にできます。 そのかけ方のバランスをかえれば 角度をつけることができます。 先に切り込みをつければ、 輪ゴムを引っかけることができます。 そんな風に、一つ一つは単純なコトですが、 そういったことが、 頭や目の前に パターンとして蓄積されるコトになります。

『自己を見つめるデザイン』

 遊びの中の微かな変化

そんなわけで(?)、 私の子どもの頃、 つまり、今から20年30年前などは、 所謂ゲーム機器で遊んでいても、 どこかで現実の「人」とつながっていました。 そして、私に関して言うならば、 ゲーム機器で遊ぶよりは、 外に出ていって、友達と遊んだり、 以前記したように、 ダンボールや割り箸といった、 当時何処にでもあったモノをつかって、 工作を楽しんでいました。 割り箸でゴムの鉄砲をつくるときや、 折り紙を折って何かをつくるとき、 ダンボールで家(小屋?)をつくるとき、 何れも、最初は行き当たりばったりです。 こうやったらどうなるだろう、 ここにこれをつけたらどうなるだろう、 と、文字通り、つくりながら考えています。 しかし、 今、その時の様子を思い起こしてみると、 その後、ちょっと違う方向に進んだように思えます。

『自己を見つめるデザイン』

 ゲームでは遊べども

今の子ども達へのゲームの影響云々、 という話をするつもりはありませんが、 私に関していうならば、 ゲームの世界に完全に没入することはないようです。 勿論、たまにやれば面白いのですが、 それよりも、現実の世界で遊んでいる方が、 遙かに多くのことを得ているように感じます。 もう良い年になった大人が「遊ぶ」などというと、 ちょっと変に聞こえますが、 小さい頃も同様で、 ゲーム機器を使って遊ぶことはあっても、 あくまでも「遊ぶ」といえば、 誰かの家にお邪魔したり、 数人で自転車でどこかまで行く、 ということが基本でした。 思い返してみると、 家の近所に一人、色々なゲーム機器を持っている子がいて、 その子の家に屯して、 みんなで話ながら、 ゲームをしながら、 というような時間の使い方だったように思います。 集まった面子で対戦ゲームなどをしたり、 誰かがゲームをしているのを何人かで眺めつつ、 全然関係ない話をして、といったような感じです。 あまり遊んだことがないのでわかりませんが、 今のネットワーク型のゲームも、 そういった使われ方をしているのでしょうか。

『自己を見つめるデザイン』

 ゲーム機器

今でこそ、私の周りには、 携帯電話であるiPhoneをはじめ、 MacBookやiPad、iPodなど、 様々(大分片寄りはありますが)な機器、 というか、遊び道具があります。 しかし、昔からそうだったのかと言えば、 そんなことはありません。 私が小学生になったころ、 丁度、初代ファミコン、 ファミリーコンピュータなるものが、 市場に出てきました。 そして、それからの数年間で、 実に多くの家庭に、 所謂「ゲーム機」が導入されることになりました。 一方、私の家にゲーム機が導入されたのは、 私が小学校の高学年の頃、 一番最初のゲームボーイ、という機器が出た頃です。 普通はそのままゲームの世界にはまっていく、 という展開なのでしょうが、 私の場合はどうもそうはならなかったようです。 親から「一日何時間まで」 などと言われるまでもなく、 それまで同様、外で友達と遊んだりしていたようです。

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 当時の「空き地」

引っ越し後に出る、 大量のダンボールは良い遊び道具でした。 そして、それと同時に、 引っ越し先の家の近くに、 空き地や、資材置き場、 神社の敷地、など、 新しい「場所」を探すのも、 楽しみの一つでした。 小学校低学年の頃の記憶ですので、 極めて断片的でしか有りませんが、 所謂「探検」が好きだったのだと思います。 屋根がかかっているようなところを見つけ、 隠れられないか(何から?)試してみたり、 そこら辺に落ちているモノを被せて、 隠すことができないか(何から?)実験したり、 そんなことをやっていました。 勿論、そんなことをやっていれば、 怪我をします。 ダンボールを切るときに手を切ったり、 何かの間に挟んだり、 本当に良く怪我をしたと思います。 例えば、小学生の頃、 大きな石材を扱っている資材置き場で、 石をどけて空間をつくろうとしていたとき、 うっかり、 左手の人差し指を石と石の間に挟んでしまいました。 痛いのなんのって、もう、本当に、 必死に泣くのをこらえながら家に帰りましたが、 その日の夜、お風呂に入っているとき、 手をお湯に沈めると同時に、 爪がプカァ〜と浮いたのを覚えています。

『自己を見つめるデザイン』

 引っ越し後に残るモノ

私は小さい頃、 工作などをとても好きでした。 と、言っても、 比較対象がないため、何と比べて好きだったのか、 絶対的指標がないため、どの程度好きだったのか、 説明するのは困難ですが。 例えば、 紙があれば正方形にして折り紙をし、 割り箸があれば輪ゴムピストルをつくり、 ダンボールがあれば小さな家をつくり、 空き地に材木置き場があれば秘密基地をつくり・・・ 今考えてみれば、あの頃の方が 余程自由に創作活動を行っていました。 別に自由があった、ということではなく、 何も考えずに、 本当にただつくりたくてつくっていました。 逆に言えば、何も考えていなかったから、 身体が動いていたのかも知れません。 そんな私にとって、 転勤族、というのは ちょっと嬉しいことでもありました。 勿論慣れ親しんだ場所を離れ、 友達とも会えなくなるのは寂しいことでしたが、 引っ越し後に出る大量のダンボールは、 私にとっては絶好の遊び道具だったと、 記憶しています。 大きめのダンボールを選び、 それを家と仮定します。 中に2階をつくり、 ドアを開け、 窓を開け、 家具をつくり、 そして、 豆電球の照明を入れる。 自分が入るサイズの家をつくるのは、 当時のサイズでも困難でしたが、 何とかやっていました。

『自己を見つめるデザイン』

 ダンボールハウス

できると思っていても意外とできない。 様々な場面で多く人のが体験することだと思います。 絵には描けたけど、 実際につくってみようとすると難しい。 例えば、昨年見学させていただいた授業の中に、 ダンボールで家をつくる、というものがありました。 つくる前にグループ毎に完成予想図を描かせ、 今度はそれを実際につくってみる、 というものです。 これがとても難しい。 何が難しいかというと、 完成予想図のようにできない。 なぜできないか? 例えば、 壁が立たない。 天井が乗らない。 入り口を開けられない。 人が生活できるだけの空間をつくることは、 意外と骨の折れる作業です。 屋外でつくったわけではないので、 自然の猛威に曝されることはありませんでしたが、 平らな場所にただ建てるだけ、 にも関わらず、 その「ただ建てる」ということが 本当に難しいようでした。

『自己を見つめるデザイン』

 価値あるできそうなこと

「できそうなこと」をすれば、 想像と創造のギャップを埋めることができる。 この「できそうなこと」も、 例えばデザインで言うならば、 経験や知識が豊富なデザイナーが考える 「できそうなこと」であれば、 多くの場合、新規性を持っており、 非常に飛躍的な創造性が望めます。 そのため、 安全策というような案であっても、 優れたデザイナーが考えた案は、 社会的に大きな価値を持っていると言えます。 ただ、 デザイナー本人にとっては あくまでも安全策なので、 多くの場合、苦肉の策と言えるものかも知れませんが。 では、優れたデザイナー以外の場合はどうでしょうか。 つまり、優れたデザイナーと呼ばれる人は、 ごくごく僅かな限られた人達です。 それ以外の多くの人達は、 新規性に乏しい「できそうなこと」しか、 想像して創造できないコトになります。 それではなかなか良い製品を商品化できません。

『自己を見つめるデザイン』

 できそうなこと、とは

想像と創造の間を埋めるためには、 いくつかの方法があります。 最も簡単なことは、 創造できそうなことを想像すること。 つまり、できそうなことを考えること。 要は、新規性を求めず、 石橋を叩いて渡るような案を考える事です。 この場合、勿論、飛躍的な創造性は期待できません。 というよりも、 飛躍的な創造性を期待しないことが大前提です。 安全策と呼ばれ、 落としどころ、 とも言われます。 このように表現すると、 とてもつまらないアイディアのように見えますが、 逆に言えば、 失敗をしづらい、という点で価値を持っています。 では、そもそも、 「できそうなこと」とはどういうことか。 この「できそうなこと」自体が、 人によって違うのです。 ある人にとっては「できそうなこと」でも、 別の人にとっては困難だと思える場合があります。 同様にその逆もあります。 つまり、 個々人によって非常に差異性がある事柄です。 その差異性は経験や知識に依拠しています。

『自己を見つめるデザイン』

 計画と実行

企業は、ギリギリのモノを狙っていきます。 実現できるかどうか、ギリギリのところ。 容易であれば売れませんし、 困難であれば実現できません。 様々な捉え方ができることですが、 その一つにあるのは、 計画と実行の連続性に関する問題です。 簡単に言えば、 考えたモノをそのままつくるのは、 意外と容易ではない、ということ。 勿論、容易なモノをつくるのであれば、 特に問題になることもありませんが、 新しいモノをつくったりする場合には、 常につきまとうことです。 想像と創造のギャップとも言えます。 デザインとは、新しいモノを生み出す行為です。 この想像と創造のギャップを減らすことは、 デザイナーとして必須な訓練の一つです。

『自己を見つめるデザイン』

 ギリギリを狙う

全く新しいことを考えるのは、 容易なことではありません。 一口に新しいこと、と言っても、 色々なレベルがあります。 突拍子もないことを思いつくのは難しいことですが、 同様に、 ギリギリできそうなこと、を考える事も、 実は難しいモノです。 できるかできないか、 ギリギリのところ。 実際に企業などで働いているときは、 そこをうまく狙っていくことが重要です。 簡単に実現できるモノは、価値が低く見られます。 つまり商品として売り出しても、 新規性が乏しく購買意欲を刺激しづらい。 しかし、逆に、 あまりにも実現が困難なモノも、 勿論、企業としては価値が低く見られます。 つくることが難しい、ということはつまり、 つくるためには過剰なコストが必要になる、 とも言えることが多いためです。 どんなに沢山売れても、 製造自体にコストがかかるようでは、 儲けは少なくなってしまいます。 そういう点から、 どのようにギリギリのところを狙っていくかが、 とても重要なのです。

『自己を見つめるデザイン』

 世界という劇場の中で

歴史とはつまり、 過去における、 ・ヒトのつながり ・コトのつながり ・モノのつながり そして、 これらの掛け合わせを学ぶこと、 と考えます。 つながりであるが故に、 それは「今」に至るまでつながってきます。 以前記した言葉で言うならば、 それはcontextと言えます。 劇場とは、 「時間と空間をcontextとして、  行われる行為をcontentsとしたとき、  演ずる側と観る側が  同じcontextを共有することで、  contentsの価値が明確になる。」 と書きました。 この世界を一つの劇場と捉えるならば、 全てのヒト・コト・モノは、 様々なcontextにのって変化しうる、 contentsと言えます。 自分自身を一つのcontentsとして、 どのcontextの中にいるのか、 そして、 そのcontextは果たしてどこへ向かうのか、 それを常に考えなければいけません。

『自己を見つめるデザイン』

 過去から学ぶ

この地に来て、学んでいることの中に、 過去から学ぶ、というものがあります。 以前、既に亡くなった人から学ぶ、 つまり、本を読むということを教わりました。 今、この地に来て、過去、そのものから、 多くのことを学んでいます。 かつてあったこと、 かつて行われたこと、 かつて言われたこと、 簡単にいってしまえば、 歴史から学ぶ、などと言われますが、 では、歴史から学ぶとはなんなのでしょうか。 私はそれを、 ・知識獲得 ・未来予測 と考えます。 前者は文字通り学ぶこと、ですが、 寧ろ、後者の方が重要なのではないでしょうか。 これは、 歴史は繰り返すという意味ではありません。 物質的な事から、 思考的な事まで含め、 過去を知ることは、 未来を予測することにつながるのだと考えます。

『自己を見つめるデザイン』

 水に浸かっている時間

お風呂がとても好きです。 清潔にしておきたい、という、 国際的な視点ではなく、 温まりたい、という、 極めて日本的な意味で好きなのだと思います。 本来なら毎日溜める入りたいところですが、 なかなかそうもいかないので、 多くの場合、シャワーだけになってしまいます。 実家の最寄りも大きな方の駅は、 駅名に「温泉」と入っているくらいですので、 所謂昔で言うところの温泉街です。 小さい頃は家の近所にも温泉があり、 結構な頻度で入りに行っていたと思います。 今いるところも、近くに温泉があり、 以前から誘われてはいたのですが なかなかタイミングが合わず、 今日、たまたま行くことができました。 私は、夏になると、 プールや海に行くのが好きです。 水に浸かっている、という状態が好きなのかどうか、 正直よくわからないのですが、 とにかく好きです。 別に、母なる海に抱かれて、 などというつもりは毛頭なく、 本当になぜなのかわからないのですが、 私にとっての「水に浸かっている時間」は、 何か特別な意味があるようです。

『自己を見つめるデザイン』

 作品を眺める時間

数は多くありませんが、 県内のいくつかの大学や高等学校の 卒業制作展などを見ています。 今週から来月頭にかけて行われるようです。 私たちの卒業制作展は、 学内の施設の中で行われました。 外部の施設ではなかったわけですし、 今考えてみれば、広報もどの程度だったのかわかりませんが、 私自身は、そこでもプレゼン同様に好き勝手にやらせてもらい、 とても満足していたことを覚えています。 (本当に勝手な話で申し訳ないですが) 今日は3つの大学の作品展を拝見しましたが、 皆、どんな気持ちで展示しているのかな、 ということが気になりました。 プレゼンテーションでは、 自分の作品は兎に角褒めなければならない、 そう教わりました。 自分のモノが最高なのだと、 観客に対して示さなければいけない。 学生達は、みんな、各自、 その意識で向かうことができただろうか、 と考えさせられました。

『自己を見つめるデザイン』

 時間の持つ一つの価値

私にとって、大学時代は掛け替えのないものでした。 その時間があったからこそ、 今の自分があることは間違いありません。 その時間があったからこそ、 今の自分がある。 これは当たり前の事です。 今まで自分が経験してきた全てのことが、 今の自分を形成する要素であり要因になっています。 だからこそ、 自分が様々なことを選択し、 実行していくのか、考えなければいけません。 今の行為が何につながるのか、 常にそれを意識することは容易ではありませんし、 想像しきれることでもありません。 しかし、 それを常に考えながら自らの行動を決めていくことは、 必ず、将来の自分自身につながっていきます。

『自己を見つめるデザイン』

 吹奏楽とオーケストラ

大学でオーケストラに出逢ったのは運命、 などと言ってみても、 何か大層なことがあったわけではありません。 ただ、実は、中学校の頃、吹奏楽部にいた頃に、 「いつかチャンスがあったらオーケストラに入りたい。」 と考える切っ掛けになるお話しを聞きました。 以降の文は、あくまでも私の主観に依るものですので、 一般的かどうかはわかりませんのでご了承ください。 私の演奏している楽器はFrench Hornと呼ばれるモノです。 蝸牛のようにクルクルと巻かれていて、 ベル、と呼ばれる音を出す部分に手を入れ、 後ろ向きに構えているような楽器です。 この楽器、吹奏楽における演奏内容は、 伴奏であったり、裏打ちと呼ばれる、 リズムセクションであったり、 所謂、裏方さんのような役割が大変多いのです。 しかし、私自身、 特にそれが嫌、と思ったこともなかったのですが、 ある時、部活の顧問の先生から、 「もし、この先楽器を続けていって、  チャンスがあるようなら、  一度オーケストラで演奏してみると良いかもね。」 と言われていたのです。 なぜ、そう言われたのか、 オーケストラで演奏してみると、すぐにわかりました。 French Hornのオーケストラにおける演奏内容は、 というか、その立場は、 所謂、花形楽器、と呼ばれるものでした。 (因みに念のために言っておきますと、  花形楽器をOboeとする人もいますので、  何かで定義されているわけではありません) 何が花形か。 とにかく旋律が多い。 美味しいところでソロがある。 弦楽器とも金管楽器とも木管楽器とも打楽器とも 一緒に演奏する。 まぁ、何を言っても、とにかく、 美味しい役割であることが多いのです。 ということで、裏方だった立場から一転、 花形楽器という立場になり、 これまでとはまるで違った演奏をするコトになりました。

『自己を見つめるデザイン』

 時間に纏わる部活動

時間、 という意味では、 私は、非常に時間と関係の深い部活を、 中学校から修士までの約12年間続けていました。 それは、楽器を演奏する、というものです。 中学校から高校までの6年間は吹奏楽を、 その後、入った大学には吹奏楽はありませんでしたが、 その代わりにオーケストラがありました。 実は、高校の部活に関して言えば、 その高校の吹奏楽に入りたい、という理由だけで 志望校を決定していました。 幸い進学校だったため、学業も頑張ることになりましたが、 後から聞いた話では、志望していた当時の私のが学力は、 その高校に受かるギリギリだったそうです。 しかし、私の頭の中はそこに入って部活をすることで一杯。 その甲斐あってかはわかりませんが、 合格することができました。 そんな高校生活だったため、 正直、大学では部活はする予定がなく、 同時に吹奏楽もなかったため、 ここまでかな、と思っていました。 そんなときに、管弦楽団、の文字が目に入ったのです。 「あぁ、オーケストラかぁ。  これはもしかしたら運命なのかなぁ。」 と、思い、入部することにしました。

『自己を見つめるデザイン』

 学生時代の二つの時間

その時その時の時事などを絡めつつ、 時間に関して考えています。 マクロな時間の考え方として、 大学時代を考えてみます。 自分の大学生活は大きく二つの時間で構成されていました。 ・学部 ・部活 多くの学生がそうだとは思うのですが、 私の場合は、ほぼ全ての時間がこの二つのどちらかでした。 今考えてみるとどうかとも思いますが、 日中は学部の方で制作などを行い、 夕方から夜くらいになると、 自転車で30分ほどかかる部室に移動し、 部活の練習をしました。 その後、また夜更けになってからは、 学部の方に戻り、 引き続き、制作を行いました。 もちろん、毎日がそうだったわけではないので、 その合間合間で遊んだりもしましたが、 ほとんどの時間は上述のどちらかだったと思います。 普通に考えたらバカみたいな生活かも知れません。 もっと楽しいことが色々あっただろうに、 とも言われそうです。 しかし、私に言わせてもらえば、 学生のうちでなければ、 こういうことはできなかったろうなと、 逆に思ったりもします。