2012年2月25日土曜日

『自己を見つめるデザイン』

 パターンの蓄積



最初は行き当たりばったりでつくっていても、
しばらくその状態が続くと、
ちょっと様子が変わってきます。

どう変わるか。

これは勿論、今だから客観視できることですが、
つくりためていく中で、
いくつかのパターンが、
頭、または見えるカタチで目の前に、
できてくるのです。

最も単純でわかりやすいことを例にとれば、
正方形の折り紙を斜めに折ると、
直角三角形になる。
誰でも知っていることです。
当たり前のことです。

それを少し発展させると、
斜めに二回折ると、
袋状にしてつぶすことができます。
(なんとなく想像がつきますでしょうか)

割り箸鉄砲で言うなら、
日本の割り箸の間に、
斜めに輪ゴムをかければ十字架にできます。
そのかけ方のバランスをかえれば
角度をつけることができます。
先に切り込みをつければ、
輪ゴムを引っかけることができます。

そんな風に、一つ一つは単純なコトですが、
そういったことが、
頭や目の前に
パターンとして蓄積されるコトになります。

2012年2月24日金曜日

『自己を見つめるデザイン』

 遊びの中の微かな変化



そんなわけで(?)、
私の子どもの頃、
つまり、今から20年30年前などは、
所謂ゲーム機器で遊んでいても、
どこかで現実の「人」とつながっていました。
そして、私に関して言うならば、
ゲーム機器で遊ぶよりは、
外に出ていって、友達と遊んだり、
以前記したように、
ダンボールや割り箸といった、
当時何処にでもあったモノをつかって、
工作を楽しんでいました。

割り箸でゴムの鉄砲をつくるときや、
折り紙を折って何かをつくるとき、
ダンボールで家(小屋?)をつくるとき、
何れも、最初は行き当たりばったりです。
こうやったらどうなるだろう、
ここにこれをつけたらどうなるだろう、
と、文字通り、つくりながら考えています。
しかし、
今、その時の様子を思い起こしてみると、
その後、ちょっと違う方向に進んだように思えます。

2012年2月23日木曜日

『自己を見つめるデザイン』

 ゲームでは遊べども



今の子ども達へのゲームの影響云々、
という話をするつもりはありませんが、
私に関していうならば、
ゲームの世界に完全に没入することはないようです。
勿論、たまにやれば面白いのですが、
それよりも、現実の世界で遊んでいる方が、
遙かに多くのことを得ているように感じます。

もう良い年になった大人が「遊ぶ」などというと、
ちょっと変に聞こえますが、
小さい頃も同様で、
ゲーム機器を使って遊ぶことはあっても、
あくまでも「遊ぶ」といえば、
誰かの家にお邪魔したり、
数人で自転車でどこかまで行く、
ということが基本でした。

思い返してみると、
家の近所に一人、色々なゲーム機器を持っている子がいて、
その子の家に屯して、
みんなで話ながら、
ゲームをしながら、
というような時間の使い方だったように思います。
集まった面子で対戦ゲームなどをしたり、
誰かがゲームをしているのを何人かで眺めつつ、
全然関係ない話をして、といったような感じです。

あまり遊んだことがないのでわかりませんが、
今のネットワーク型のゲームも、
そういった使われ方をしているのでしょうか。

2012年2月22日水曜日

『自己を見つめるデザイン』

 ゲーム機器



今でこそ、私の周りには、
携帯電話であるiPhoneをはじめ、
MacBookやiPad、iPodなど、
様々(大分片寄りはありますが)な機器、
というか、遊び道具があります。
しかし、昔からそうだったのかと言えば、
そんなことはありません。

私が小学生になったころ、
丁度、初代ファミコン、
ファミリーコンピュータなるものが、
市場に出てきました。
そして、それからの数年間で、
実に多くの家庭に、
所謂「ゲーム機」が導入されることになりました。
一方、私の家にゲーム機が導入されたのは、
私が小学校の高学年の頃、
一番最初のゲームボーイ、という機器が出た頃です。

普通はそのままゲームの世界にはまっていく、
という展開なのでしょうが、
私の場合はどうもそうはならなかったようです。
親から「一日何時間まで」
などと言われるまでもなく、
それまで同様、外で友達と遊んだりしていたようです。


2012年2月21日火曜日

『自己を見つめるデザイン』

 当時の「空き地」



引っ越し後に出る、
大量のダンボールは良い遊び道具でした。
そして、それと同時に、
引っ越し先の家の近くに、
空き地や、資材置き場、
神社の敷地、など、
新しい「場所」を探すのも、
楽しみの一つでした。

小学校低学年の頃の記憶ですので、
極めて断片的でしか有りませんが、
所謂「探検」が好きだったのだと思います。
屋根がかかっているようなところを見つけ、
隠れられないか(何から?)試してみたり、
そこら辺に落ちているモノを被せて、
隠すことができないか(何から?)実験したり、
そんなことをやっていました。

勿論、そんなことをやっていれば、
怪我をします。
ダンボールを切るときに手を切ったり、
何かの間に挟んだり、
本当に良く怪我をしたと思います。
例えば、小学生の頃、
大きな石材を扱っている資材置き場で、
石をどけて空間をつくろうとしていたとき、
うっかり、
左手の人差し指を石と石の間に挟んでしまいました。
痛いのなんのって、もう、本当に、
必死に泣くのをこらえながら家に帰りましたが、
その日の夜、お風呂に入っているとき、
手をお湯に沈めると同時に、
爪がプカァ〜と浮いたのを覚えています。

2012年2月20日月曜日

『自己を見つめるデザイン』

 引っ越し後に残るモノ



私は小さい頃、
工作などをとても好きでした。
と、言っても、
比較対象がないため、何と比べて好きだったのか、
絶対的指標がないため、どの程度好きだったのか、
説明するのは困難ですが。
例えば、
紙があれば正方形にして折り紙をし、
割り箸があれば輪ゴムピストルをつくり、
ダンボールがあれば小さな家をつくり、
空き地に材木置き場があれば秘密基地をつくり・・・
今考えてみれば、あの頃の方が
余程自由に創作活動を行っていました。
別に自由があった、ということではなく、
何も考えずに、
本当にただつくりたくてつくっていました。
逆に言えば、何も考えていなかったから、
身体が動いていたのかも知れません。

そんな私にとって、
転勤族、というのは
ちょっと嬉しいことでもありました。
勿論慣れ親しんだ場所を離れ、
友達とも会えなくなるのは寂しいことでしたが、
引っ越し後に出る大量のダンボールは、
私にとっては絶好の遊び道具だったと、
記憶しています。
大きめのダンボールを選び、
それを家と仮定します。
中に2階をつくり、
ドアを開け、
窓を開け、
家具をつくり、
そして、
豆電球の照明を入れる。
自分が入るサイズの家をつくるのは、
当時のサイズでも困難でしたが、
何とかやっていました。

2012年2月19日日曜日

『自己を見つめるデザイン』

 ダンボールハウス



できると思っていても意外とできない。
様々な場面で多く人のが体験することだと思います。
絵には描けたけど、
実際につくってみようとすると難しい。
例えば、昨年見学させていただいた授業の中に、
ダンボールで家をつくる、というものがありました。
つくる前にグループ毎に完成予想図を描かせ、
今度はそれを実際につくってみる、
というものです。
これがとても難しい。
何が難しいかというと、
完成予想図のようにできない。
なぜできないか?
例えば、
壁が立たない。
天井が乗らない。
入り口を開けられない。
人が生活できるだけの空間をつくることは、
意外と骨の折れる作業です。
屋外でつくったわけではないので、
自然の猛威に曝されることはありませんでしたが、
平らな場所にただ建てるだけ、
にも関わらず、
その「ただ建てる」ということが
本当に難しいようでした。