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今年一年ありがとうございました。

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今年は一年、どんな年だったのか、 「コロナが」の一言で片付けてしまってはいけないと感じます。 来年をどのように迎えるのか、 「コロナが」の一言で収めてはいけません。 自分にできること、 自分がすべきこと、を、 少しでも、一つでも、 やっていきます。

自分の中に残す

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いつも懸垂をするために行ってる公園での一枚です。 あぁ、そんな季節なのか、と思うと共に、 最後にどんぐりを見たのって、いつだったかな、 と考えていました。 小さい頃、見つけては拾って帰っていましたが、 そうかそれは秋だったのか、 とか、 小学生の頃はどこを歩いた時に見つけたんだったろうな、 など、 拾ったという行為は覚えていても、 周辺情報は残っていない。 今からのことだけでも、 せめて自分の中に残していきたい、 そう感じました。

注意書き

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ショッピングモールの店舗の一つに行ったところ、 キッズコーナーが準備されており、 写真のような注意書きが貼られていました。 自分が何かでこういう設定をしなければならないとき、 など、その場になってから考えるのはなかなか厄介な内容です。 ちょっとでもメモ書きとして、 頭の片隅に入れつつ、メモにも入れておこう、 と考えて撮ってみました。 こういった内容を過不足なく行うのは、 なかなか難しいものです。

自然の一部として

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人の視線の先には「何かがある」と感じます。 特に複数人が一つの方向を見つめていれば、 まず間違いなく何かあるのでしょう。 スナップショットを撮るときは、 その視線が自分に向かないように撮ることが大切だと考えます。 今はこっそり撮る、というかたちになっていますが、 いつか自分の気配を消して、自然の一部として撮りたい、 と思っています。

公園の木々

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家の近くに見つけた広い公園には、 たくさんの木々が良い感覚で植えられています。 本当に過ごしやすいようで、 晴れた休日には、必ず楽器の演奏をしている人がいます。 管楽器から弦楽器まで、 色々な音を聴いていると、 久々に自分でもやってみたくなるから不思議です。 そんな中での一枚。 可愛らしいキノコが生えていました。

二つの目を

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以前、スマートフォンでも撮ったユキヤナギです。 祖父のKonica FMで隙間から撮ってみましたが、 程よいボケが手前と奥にできています。 今のスマートフォンは、 擬似的なボケを綺麗に付けてくれるものがあります。 現状で少し不自然に見える部分も、 やがてもっと自然に見えるようになるのでしょう。 ただ、今の自分の気持ちとしては、 その便利な部分も楽しみつつ、 昔からある、自然な雰囲気も楽しめる目を持ちたい、と感じています。

Amazonの凄さ

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調べてみたところ、 ルービックキューブが売られ始めたのは、 私が生まれた年でした。 もうこれは、いろいろな意味でつながりがあるのだな、 と感じました。 揃えられるようになってみます。 何かに対して、自分で法則を見つけるということは、 (多くの場合、既に誰かが見つけているものですが) やはり楽しいと感じます。 これはどんな種類の欲求なのでしょうか。

本年もよろしくお願いします。

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山形に帰省してすぐの時に写真のような虹を見ました。 お、幸先が良いのかな、と思ってみれば、 案の定、私の場合はそんなこともなく、 体調を崩して寝込んでしまったわけですが、 意外とそれはそれで良かったのか、と感じています。 2019年、自分なりに結構走ってきたと感じています。 しかし、できていないことが山積みです。 2020年それらを消化しつつ、自分の足で歩けるよう、 務めていきます。 本年もどうぞよろしくお願いします。

感謝の一年

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今年も一年、なんとか歩いてきました。 自分がどうなるのか、わからない状態で今年の元日を迎えました。 多くの方にご心配をおかけし、また、有難いお言葉をたくさんいただいてきました。 環境も完全に新しいものになり、 自分が知らない土地、知らない人々の間で生きてきました。 いつもいつも助けられて生きていることを、 自覚し続ける人生です。 今年も一年、ありがとうございました。

道具を綺麗に

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年末が近づいています。 今年お世話になった道具に感謝の意を示しつつ、 綺麗に洗って整理をしていきます。 写真の道具は学生さんたちが綺麗に洗ってくれました。 道具は自分で自分を綺麗にすることができないものがほとんどです。 そうであればこそ、使う人がそうしなければならない、と感じます。

鳥の視点

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久しぶりにデジタルカメラで撮影した写真です。 ドローンで大学周辺を撮影してみました。 高度的には6階くらいの高さだったのですが、 いつもとは違う視点から対象を見ることの面白さを、 如実に感じ取ることができました。 まさに百聞は一見に如かずです。 二つの視点のうち、自分側の視点、Eye-pointが大きく変化することで、 普段見ていた風景は一変します。 しかし、鳥にしてみれば、いつもと変わらない風景です。 自分の視点は絶対的なものではなく相対的なものである、 そんな当たり前のことも、こうやって体験しなければ 意識しづらいことだったりします。 モノづくりをしていく上ではとても大切なことです。

ボケを使う

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同じ展示会場でも、 ボケている人とボケていない人で、 伝えられるメッセージが変わってきます。 暗めの会場内でシャッターを切り、 その中で全くボケずに写っている、ということはつまり、 その展示に釘付けになっている、ということを、 暗に示すことができます。 もちろん、実際にその人がどうだったのか、 それはわかりません。 それでも写真を見た人に私の考えを伝えることはできる。 そう考えると、非常にデザイン的であると、捉えることができます。

レンズの役割

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カメラのレンズはどうしてあんなに種類があるんだろう。 確かに遠くのモノを撮ったり、近くのものをくっきり写したり、 色々な用途があって、原理に基づいてつくられている、ことはわかるのですが、 それでどうした?と気持ちがちょっとありました。 今回、 Hexanon 52mm F1.4と、 Hexanon 35mm F2.8を実際に持ってみて感じることは、 二つは全然違うモノ(当たり前ですが)、ということです。 写り方が違う、という意味ではなく、 写したいものが違う、という感覚です。 逆に言えば、 自分が何を撮りたいのか、という意思がなければ、 レンズなど選べないのだと感じます。 遠くを撮りたいから望遠、 広く撮りたいから広角、 近くを撮りたいからマクロ、 それは写り方の違いです。 本当のレンズの役割はそこではないのだ、と初めて感じました。

展示空間

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研究室がある建物の一階部分には、 展示できる空間があります。 広い空間に可動式の壁兼パネルボード、 それに展示台があります。 しょっちゅう色々な展示がされているため、 写真のように空いている時間は珍しいです。 授業の課題を一時的に展示する場合が多いわけですが、 何気なく通っている時も、やはり目に入り、 気になるものです。 人らから見られる、ということは、 それ自体が強い刺激になります。 自分の作品がなくとも、 自分が関わったものが並ぶ、ということだけで、 十分に強い刺激です。 人に見せる。 人から見られる。 大切なことです。

話し

今晩、他の先生方と夕食をご一緒しました。 職場の立地の関係から、 なかなかそういう機会は取りづらいのですが、 今回はタイミングからもうまくいきました。 普段、職場ではなかなか聞く機会がないような、 リアルなお話を直接伺いつつ、 自分自身はどうなのか、と考えさせられました。 その気持ちを明日から実際にぶつけていきます。

テーマ

今日は、いくつかの研究テーマに触れることができました。 誰がどういった領域でどんなことを進めているのか、 ダイジェストのような形ではありますが、 その概要を伺うことができました。 それらとは異なる領域で、 自分ができること、 自分がすべきこと。 そういったことを考えながら、 自分自身を振り返ることができました。 これまで担当させてもらってきた内容から、 どのくらい自分の力で広げていけるか、 そして、それがどんなモノにつながっていくのか。 いけるところまでいってみます。

† じゃんけん †

英語のドラマを見ている中で、 登場人物たちが「じゃんけん」をするシーンが出て来ました。 日本では何かを決める際に比較的よく行われる行為ですが、 海外ではコイントスをすることが多く、 じゃんけんは稀、とのことです。 以前、英語の授業でも習った気がするのですが、 アメリカの一般的なじゃんけんの手は日本と一緒、 Rock-Paper-Scissorsのようです。 調べてみると、世界中で様々な方法があるとのこと。 特に、フランスは手が4種類だったり、 アメリでは101種類の手があるものも。。。 この辺りの詳細は様々な文献にお任せするとして、 重要なことは、何かを決める手法についての考え方です。 時代劇などをみると、「半か丁か?」というシーンがありますが、 あれもコイントスと一緒で、50%のどちらを選ぶか、というものです。 人間は何かを決める時、 考えても考えてもダメな時、 どれを選ぶか、という運に頼る、ということが、 少なからずある、ということになります。 その中でも、コインやダイスという道具を用いるものと、 人間の体を用いるものがあると思われますが、 どちらも意思決定のタイミングが異なるだけで、 「自分自身」が「決定の根拠のないところ」から「自分で選ぶ」ということが 共通要素です。 こういった決め方をするのは人間だけなのでしょうか?

⁂ 課題 ⁂

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課題(Question)を与えられて、 回答(Answer)を導き出していく。 大学に入るまで、また、大学の初年度などに行っていくことです。 ただ、高等学校とは少し変わって、 答えの形は、何種類かあることが多くなります。 業務上、学生と一緒に取り組む機会があり、 久しぶりにそういう場に自分を置くことになりました。 自分が学生だった頃は、何を考えていただろう。 どう思いながら取り組んでいただろう。 それに対して、今はどうだろうか。 そんなことを考える時間でした。

⁂ 服装 ⁂

新年度をむかえ、 講義や実習が始まりました。 自分が大学一年生だった時、 どんな目で教員を見ていたか。 そんなことを考えていました。 教員が話した言葉をどう受け止め、 教員の行動をどう見ていたか。 その1つ1つが、実はとても重要な意味を持っている、 と、強く感じるようになりました。 今までは感じていなかったのか、と言えば、 そういうわけでは有りませんが、 これまでは、そんなことを考える、精神的な余裕が、 一切無かった、と言えます。 今あるのは精神的な余裕ではなく、 単純に歳を取ったコトによる、状況への理解、 なのだと思います。 それでも構いません。 自分自身を顧みながら、 行動し、発言していきたいと考えています。

† 勧められた本 †

昨日、ある本を教えていただきました。 これまで読んだことがないのはもちろんのこと、 改めて読んでみよう、とも考えていなかった系統の本でした。 今の自分にとって、 そして、これからの自分にとって、とても必要な書籍だと感じました。 表面だけしか知らないことは、知っているとは言えません。 それを得るために書籍を読み込み自分のものにしなければなりません。 1つの講義をするには、200冊の本を頭に入れなければならない、 と教えられました。 ただ読んだだけでも駄目なのだと感じています。 頭に入れ、自分の言葉にできていなければ、 借り物言葉でしかありません。 それを積み重ねていかなければならない、と強く感じています。