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‡ 現代におけるAIを考えてみる④ ‡

数学の定理を自動的に証明するプログラムから始まり、 1980年代には、コンピュータに専門的知識を学習させ、 それを使って問題を解決させる、という試みが行われたそうです。 エキスパートシステムと呼ばれそうですが、 数値化できない事柄については対応できない、 という一般的に想像しうる機器の限界のようなものが壁だったようです。 例として医療が出ていました。 「お腹がチクチクと痛い」という表現を数値化しろ、と言われたら、 誰でも困ります。 むしろ、この問題は、人工知能云々とは関係なく、 一般の医師でも起こっていることです。 痛みを10段階で考えた場合、どのくらいか? お腹の上の方か下の方か? 刺すような痛みか、叩かれたような痛みか? など、いろいろな表現を用いて、 なんとか病状を理解し、治療方法を導く、 これは、非常に難しい方法です。 現代では、患者の言葉から、症状を推察し、 その推察を明確にするために検査を行います。 検査の結果が、推察した症状と同様の結果を示せば、 そこから即治療に進むことになりますが、 もしも、推察と検査結果が示すものが違った場合は、 推察を変更し、状況によっては検査をし直すことになります。 つまり、機器でも理解できるように痛みを数値化することができれば、 医療にとって非常に大きな一歩になる、とも言えます。

『自分と向き合うデザイン』

 節電を思う

久しぶりに、夜道が暗いと感じました。 街頭が無く、車が通らないだけなのですが、 本当に暗い。 びっくりするくらい暗い。 世の中って自然だとこんなに暗くなるんだ、と、 改めて認識させてくれるくらい、 本当に真っ暗になるものです。 田舎育ちの私にとって、 夜、暗くなる、という現象は、 極めて自然で、当たり前の事だったはずですが、 名古屋・川崎・大阪と移り住んでいるうちに、 そんな当たり前の事も忘れてしまっていたようです。 人間などの生物には、 体内時計と呼ばれる、時刻を認識する機能があります。 人間の体内時計の一日はおよそ25時間と言われており、 普通に考えれば、 1時間/1日、のペースでずれていってしまいそうです。 でも、実際にはそんな風にはなりません。 なぜでしょう。 答えは、朝日にあるそうです。 朝日を浴びることでそこから一日が始まる、と、 身体が認識し、誤差を修正するため、 規則正しい生活が送れるのだそうです。 そう、逆に言えば、 きちんと朝日を浴びないと、 一日のリズムはどんどん狂っていくことになります。 今回の節電を受け、 世の中は、これまで以上に電力を意識するようになりました。 そこにかけている情けは、 きっと、被災地へ向かい、 環境へ向かい、 自然に向かい、 自分に還ってくるのだと思います。 夜勤で働くことに意義のある職種も多いため、 必ずしも夜中の電力をカットすることが 良いわけではありませんが、 体内時計のことなどちょっと思い出しながら、 朝日を浴びるために夜早く寝る、 そんな風に考えるのも良いのかも知れません。

『自分と向き合うデザイン』

 常に自分自身

自分の経験から、現在の電子カルテの問題点を考えてみます。 何事もそうですが、 一番大切なのは自分自身がどのように感じるか、ということです。 「何時か」 「何処か」で 「誰か」が 「そんな風なこと」を言っていた、 では、 相手を説得できません。 以前もこのブログで書きましたが、 一番重要な点は、 そのモノを本当に自分が欲しいと思えるかどうか。 それがスタートラインです。 では、自分が直接用いないモノ、 使わないモノ、 もしかしたら一生関わらないモノに関しては、 どのように考えていけば良いのでしょう。 このことは次回以降に回して、 まずは自分が直接関係するモノから考えてみます。 しかし、世の中には、 どれだけ 「どっかの誰かが好き」 「みんなに人気がある」 という考えの元につくられているモノが多いことでしょう。 特に2000年に入ってから、ISO13407がらみで こういった考えが普及したのではないでしょうか。 ただ、こういった考えが悪い、 というわけではありません。 様々な試行錯誤の中で、 物事を説明するために生み出されて来た方法論だからです。 使用者・ユーザーという視点で製品を整理してみると、 色々な見え方をします。 例えば、携帯電話などのプライベートな製品は、 多くの場合、機器を使用する人と、 その機能の恩恵を受ける人が一致しています。 では、ちょっと大きく離れますが、 医療機器などはどうでしょうか。 機器を使用するのは、
お医者さんをはじめとした医療従事者の方です。 一方、その機能の恩恵を受けるのは、 患者という、機器を用いた医療従事者とは全く異なる人です。 これは使用者に限った表現ですが、 厳密に言えばもっともっと関係者は増えていきます。 もう少し具体的に、手術室で使用する機器を考えてみましょう。 まず、その製品をつくるメーカーサイドの人がいます。 次に、その製品を購入する人がいます。 いよいよ使用者に入りますが、 医療機器という特性上、 例えば、医者に機器を渡す看護師がまず関与する可能性があります。 そして、実際に使用する医者、 その機器を使用されるのは患者、 使用された医療機器はディスポーザルのモノであれば、 看護師の手に渡り廃棄されます。 ...

『自分と向き合うデザイン』

 カルテの問題点

一口に電子カルテと言っても、 開発しているメーカーは一社だけではありません。 だから、各社競い合って良いモノができあがる。 というように、シンプルに物事はもちろん進みません。 当然、社間を越えて共有できるデータにはなっておらず、 基本的には病院内で情報を保存するためにのみ使われています。 活用のされ具合は病院によって異なりますが、 これまで紙で行われた作業がそのままパソコンに移行した、 程度のところもあるはずです。 電子カルテの問題点を言及する前に、 今でも診療所などで使用されている 紙のカルテの問題点を考えてみます。 最近私自身が体験したとこととして、 過去の履歴を反映させにくいという点があります。 比較的健康体である私は、滅多に病院に行くことがなく、 多くて一年に一度、という状態です。 そんな私ですが、冬になると空気が乾燥するため、 どうしても喉が炎症を起こしやすくなります。 私の場合は放っておくと喘息の諸症状が出てくるので、 炎症の起こりはじめで対策を立てようと思い、 先日、約一年ぶりに内科に行きました。 去年はこの最初の段階を甘く見ていたために 大変酷い目にあったからです。 自覚はできていますが、症状としては大変軽いので、 客観的には、健康なのか風邪なのか喘息なのかわからない、 という状況だったと思います。 しかし、去年、悪化してから診察を受けた際に、 「もっと早めに来てもらえれば」、 と言われたこともあり、 多分、去年のカルテを参照して気管支系の薬をくれるんだろうな、 と考えていました。 簡単な問診と触診の後に出てきたのは、 「熱もないので大丈夫そうですが、  風邪のお薬だけ出しておきましょうか」 という言葉でした。 ?あれあれ? いや、実は昨年の同じくらいの時期に・・・。 と話すと、ようやく過去のカルテを見られて、 血中酸素飽和度や喉の炎症に診察の対象が向かいました。 そんな経験から現在のカルテの問題点を考えます。

『自分と向き合うデザイン』

 新しい個人認証

昨今明らかになり、話題を集めたモノとして、 DNAの解析というものがあります。 お陰で自分自身を構成している遺伝子を 「情報」として捉えることができるようになりました。 本当に自分自身を一意的に定めているのかどうかは、 世界中のすべての人のDNAを解析しない限りわからないので、 演繹的に正しいとは言えませんが、 その考え自体はおおよそ間違っていないと考えられます。 しかし、DNAが解析されたからといって、 「私はこういうものです」といってその塩基配列を示すことは、 コミュニケーションとして成立しているとは言えません。 そもそも、そこに記されている情報とは、 どういったものなのでしょうか。 その人が何時亡くなるのか、 そんなことまでが記されているのでしょうか。 DNA解析までいかなくても、 医学的に個人情報を見つめる手段は昔から考えられていました。 例えば、 「熱がある」や「脈が早い」などはその代表でしょう。 従来、そういった医学的な情報は体外に保存されてきました。 病院に行けばカルテに「病歴」というものが残ります。 同様にその時に薬剤を処方してもらっていれば 「処方箋」というものにも記録が残ります。 遺伝子にはそういった情報まで記録されていくのでしょうか。 もし、 DNA解析が個人でも容易に即時的に行えるなら、 今までそのように体外に保存されてきた病歴や処方箋は、 常に自分自身のDNAに格納して移動しているように、 振る舞うことができるはずです。 これはこれまで生体情報として個人認証に用いられてきた情報に 置き換えることができることを意味しています。 指紋や声紋・虹彩・静脈紋の大体として、 DNAから遺伝子の情報を抜き出して、 個人認証に用いることができます。

『命と向き合うデザイン』 

 新・デザインについて−8

産業革命は産業医学の発達にも寄与しています。産業革命時の劣悪な労働条件では、労働者は作業関連疾患と呼ばれる症状を患うことが多かったと言います。当時、労働者は都市にあふれていたため、労働者が怪我や病気で業務を進めることに支障が発生した場合、即座にその労働者を解雇し、新しい労働者を雇用するという方法が効率的でした。しかし、低賃金による長時間労働や児童労働など、労働問題の深刻化を受けて、1833年に工場法が制定されます。これを受け、労働者の権利がある程度保証されるにいたり、彼らが業務を遂行するために必要最低限の環境を確保する必要が生じました。その中で、作業に関連した疾患を予防することで健康を維持しようと考えたのが、産業医学の始まりです。労働者を守るという視点ではなく、あくまでも産業資本家が損失を受けないことを目的としていましたが、疾患による解雇の可能性が減ったことと、最低限の健康を保証されたという点において、結果的には産業医学の発達は労働者の生活を守ることには役立ったと言えます。 産業革命を経て発達したこの学問領域は、1857年に生まれたエルゴノミクスという考え方に引き継がれます。元々は、労働の環境や機器をどのように設計すれば効果的に収益を上げることができるか、ということに注力された考え方でした。それが人間の身体的特性を把握し、疲労の軽減、動作効率の向上などにつながり、現在でいうところの人間工学の根幹を担う柱の一つになりました。一方、人間工学のもう一つの柱としてヒューマン・ファクターという考え方があります。これは第二次世界大戦時にアメリカで生まれた考え方で、飛行機のコックピットをどのように設計すればパイロットが操縦を間違わないか、安全に操作できるか、という実益が背景にあります。つまり、エルゴノミクスに比べ、認知特性など心理学の分野から人間工学に向かったと言えます。この考えは現代でも用いられSHELモデルなどを用いて分析されています。ヒューマン・ファクターは、やがてマン・マシン・インターフェイスやユーザ・インターフェイスという考えにつながり、エルゴノミクスとヒューマン・ファクターの二つが組み合わさり人間工学という表現で総称されることになります。 ・人間中心設計(ISO13407対応)プロセスハンドブック ・伊藤 謙治, 人間工学ハンドブック, 朝倉書店, 2003 ...

『命と向き合うデザイン』 

 整理

一度、ここまでの内容を整理し、構成を再考します。 - 背景 - 目的 - 再生医学について - 細胞シート工学 - 人工心臓 - 細胞シートによる治療 - デザインについて(歴史まで) 以上は、過去から現在までの歴史的事実・一般的認識・普遍的原理を通して、現状に対する考え方の共有を行っています。まず、これに引き続き、デザインにおける共有を行います。そしてさらに、これらを受けての次の段階としては、現在として問題提起を行い、現在から未来として解答提示を行うことになります。 その際のキーワードとしてアブダクションの導入を検討します。これは、デザイン手法全体を一貫している考えを仮説的推論であるとし、構成論的に考察することを意味します。 デザイン手法を用いて解答を得た基礎研究を、仮説的推論の視点から分解し、解説することで、デザインという解答を獲得するための行為が持っている優位性を明らかにします。 まずは、その問題提起を行うための共通感覚の集積を行います。

『命と向き合うデザイン』 

 新・デザインについて−7

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産業革命から始まった近代のデザインは、このバウハウスまでの約100年ほどの期間を持って、一つの区切りを向かえたと考えられています。つまり、計画と意匠という双方の意味を持つ営為としてのデザインの基礎が固められたと言えます。そのため、今なお、バウハウス期のデザインはデザイン教育の基礎として用いられています。この歴史からは、産業とデザインの関係が読み取れます。新しい素材や技術・生産方法などが発明・発見された時代に何か新しい製品をつくっていく場合、デザイナーは必然的にそれらの要素を組み合わせ、製品または商品化し、産業として確立させることを求められていた、ということになります。そして、その都度結果を残してきたと言えます。つまり、産業界にとって新しいさまざまな要素・要因は一つの「問題」と言えます。それに対して、デザイナーが「解答」として適切な製品・商品を設計してきたという歴史的事実が存在することになります。 ・Alvin Toffler; The Third Wave, Bantam, 1984 ・Nikolaus Pevsner; Pioneers of Modern Design, From William Morris to Walter Gropius; Revised and Expanded Edition, Introduction by Richard Weston

『命と向き合うデザイン』 

 新・デザインについて−7

こういった造形活動は確かにバウハウスの特徴の一つですが、もう一つ、それまでのデザインの領域では見られなかった特徴として、教育運動が挙げられます。従来、特に造形の技術に関することは、師弟関係によって師から弟子へと受け継がれていきました。しかし、バウハウスではその師弟間における伝授をより一般的な「教育」という方法論に集約する活動を実行化しました。そのため当時の教育者(デザイナー)は、各自がつくり出すそれぞれの作品を、「論」として一般化または体系化することを求められました。特に、美術作品以外の「製品」と呼ばれる作品に関しては、産業革命以前には、主観による美しさだけで一方的に語られていた時代から、その美しさを含め、製品そのものを他者に伝達する必要が生じたことになります。そのためには製品に対する客観的な視点が必要であり、必然的に個々の機構や素材はもちろんのこと、製造方法から生産方法までを一般化する必要が発生しました。産業革命以降に徐々にできあがっていたデザインと産業の密接なつながりは、バウハウスの教育運動をもってより明確になったと言えます。その結果、デザイナーとして優れた評価を受けた者であっても、教育内容に思想を強く持ち込んだために教鞭を執ることを許されなくなった者もいました。そして、バウハウスで教育を受けた者は、社会に出てデザイナーとして活躍し、再び今度は、教育者としてバウハウスに戻ってくるという人の流れが発生しました。これによって、教育運動は廃れることなく、歴史の中ではたった14年間という限られた期間ではありましたが、年を重ねるごとに密度を高めていったと言えます。このバウハウスの閉鎖は、ナチスドイツの活動の一つによるものであり、教育者の多くは他国への亡命を余儀なくされます。しかし、これは結果的に世界各地にバウハウスのデザイン教育・デザイナー教育を伝播させる役割を担ったことになるとも言えます。 ・Alvin Toffler; The Third Wave, Bantam, 1984 ・Nikolaus Pevsner; Pioneers of Modern Design, From William Morris to Walter Gropius; Revised and Expanded Edition, Introduction by Richard Weston...

『命と向き合うデザイン』 

 新・デザインについて−6

バウハウスは1919年に開校し、1933年にナチスによって閉鎖させるまでの14年間、主に「教育運動・造形活動・工房活動」の3本を軸として進められたデザイン活動です。設立時の構想は「工芸や芸術を統合するものとしての総合芸術」でした。イギリスから端を発した産業革命から、時代を経て続いてきたデザインの歴史において、その一つの到達点という位置付けが非常に強い活動です。これまでのさまざまな活動の要素・要因が集約した形になっています。このバウハウスを設立した初代校長のヴァルター・グロピウスは、ドイツ工作連盟を起こしたヘルマン・ムテジウスの弟子にあたります。そして同時に、アール・ヌーヴォーの初期に活躍したヴァン・デ・ヴェルデから強い影響を受け、バウハウスを創設することになったのです。ドイツ工作連盟とアール・ヌーヴォーは、造形的な要素や規格化・標準化という点において対立した思想であったと認識されていますが、ヴァン・デ・ヴェルデ自身、ドイツ工作連盟に在籍し、活動した時期があります。この当時の中心的な二つの思想がグロピウスに影響を与え、バウハウス創設に至ったということは非常に興味深いことです。さて、そのバウハウスですが、一般的には「機能主義・合理主義」としての考え方が強く、製品設計・生産管理などを一つの「システム」としてとらえるという意味での、デザインの基礎がつくられたと言えます。それまでにも、さまざまな物品をシステムとして管理する発想は既に始まっていましたが、バウハウスでは家具から室内空間・建築・集合住宅・都市という範囲までのすべてを、一貫したシステムとみなし、統合することを目的としていました。 ・Alvin Toffler; The Third Wave, Bantam, 1984 ・Nikolaus Pevsner; Pioneers of Modern Design, From William Morris to Walter Gropius; Revised and Expanded Edition, Introduction by Richard Weston

『命と向き合うデザイン』 

 新・デザインについて−5

一方、デザインの歴史から産業革命を見てみます。大量生産による品質の低下を憂いた一部の人々が、手によるモノづくりの復興活動を興します。それはアーツ・アンド・クラフツ運動と呼ばれ、活動時期は19世紀の後半から20世紀の初頭まででしたが、この活動が国際的にさまざまな活動を誘発することになります。中でも、フランス・パリを発祥とするアール・ヌーヴォーは1890年のパリ万国博覧会を切っ掛けに世界中に広まることになります。これは手づくりを重要視しながらも、鉄やガラスといった当時の新素材の可能性を検討し、各デザイナーが新しい表現方法を模索した活動といえます。また、パリ万国博覧会と並んで、写真の技術が一般化したことも、国際的な規模で活動が浸透した理由の一つです。さらに時代が進むと、機械工業による安価で大量生産なものづくりと、手づくりによる少量ですが品質の高い生産との、両方を重視する考え方が広がりはじめます。中でも、アーツ・アンド・クラフツ運動の思想を受け継ぎつつ、後のバウハウスへとつながるドイツ工作連盟という活動は「大量生産するためのモノの規格化・標準化」という考えを中心に、芸術と産業の統一という構想を持っていました。また、一方ロシアでは、ロシア・アヴァンギャルドが起こり、デザインと政治のつながりが明確になりました。その考えの根本は、モノのデザインは生活様式・文化全体へ影響をおよぼし、結果的に政治・経済・社会全体に関わる、ということを初めて国家として意識した活動でした。プロパガンダ・アートとも呼ばれるように、政治にも積極的にデザインが取り入れられ、思想を伝達するための手段として用いられました。製造面で意識されていたことは「使用と生産の両面から見た合理性」として標準化が強く押し出されました。産業革命から続いた一連の流れの一つの区切りとしてここでバウハウスが設立されます。 ・Alvin Toffler; The Third Wave, Bantam, 1984 ・Nikolaus Pevsner; Pioneers of Modern Design, From William Morris to Walter Gropius; Revised and Expanded Edition, Introduction by Richard Weston

『命と向き合うデザイン』 

 新・デザインについて−4

産業革命とは、19世紀のイギリスから始まった、技術革新による産業・経済・社会構造の一連の変革を指す言葉です。技術の革新によって、従来の手工業から機械工業へと変化した産業基盤によって、それまでに蓄積されていた資本を使い、農村で溢れた労働者を都市に引き入れました。結果として、主となっていた綿織物工業を中心に、それに関係する製造業・搬送業などあらゆる産業へ革新は波及しました。労働者階級人口が爆発的に増加し、産業資本家に次ぐ勢力となったため、経済・社会構造にまでその変革はおよびました。やがて第1回ロンドン万国博覧会(1851年)を迎え、当時の先進国の多くに産業革命の波が押し寄せることになります。ここで着目すべきは、手工業から機械工業へと変化した技術的な部分についてです。製造者の視点に立つと、産業革命以前は職人の手によって一つ一つつくられることが基本でした。言い換えれば「職人がつくることができる」ということが製品化・商品化の成立条件でした。しかし、産業革命以降は、機械が一度に大量に製造できることが成立条件になったといえます。この移行は当初は速やかにいかず、品質の悪い粗悪な商品が出回ることになります。しかも、製造機の改良が進み品質が向上すると、今度は逆に、産業資本家が利潤を追い求めるために生産コストを下げ、安く質の悪い商品が大量に生産されることになりました。また、労働条件の悪化を起因とするヒューマンエラーによる品質低下もこれに重なりました。 ・Alvin Toffler; The Third Wave, Bantam, 1984 ・Nikolaus Pevsner; Pioneers of Modern Design, From William Morris to Walter Gropius; Revised and Expanded Edition, Introduction by Richard Weston

『命と向き合うデザイン』 

 新・デザインについて−3

次にデザインを歴史という軸に沿って見てみます。ここでは、産業革命が近代デザインの起源であるとして論を展開します。デザインの起源をどこに設定するかは諸説あり、デザイン対象によって変わる場合もあります。例えば、ヒトまたは動物が道具を使用した時からデザインはあったという説もあります。しかし、この場合、道具をつくり出す行為をデザインと呼んだとしても、それは営為とは言えず、目の前にある問題を解決するための手段としてのみ行われていると言えます。一方、産業革命期におけるデザインは、工業化の流れの中で、デザインもまた、従来の職人の手による造形から、製造方法・生産方法を意識したものへと変革していきました。これは商品または製品として、販売など社会的な流通を意識した行為であると言え、営為であると判断できます。よって、ここでは産業革命をその起源とし、現代までの流れを確認してみます。そもそも、モノやコトの始まりを規定し、そこからそれらのモノ・コトを定義することは、どこに「視座」を構え、どの「視点」から、どの「視線」をもって、どこまでの「視野」を対象とするのか、ということを明確にすることが必要です。ここでは産業と言う視座と視点をもって主に製品・商品を視野に入れた視線でもってデザインを読み解いて行きます。 ・Alvin Toffler; The Third Wave, Bantam, 1984 ・Nikolaus Pevsner; Pioneers of Modern Design, From William Morris to Walter Gropius; Revised and Expanded Edition, Introduction by Richard Weston

『命と向き合うデザイン』 

 新・デザインについて−2

デザインという言葉の意味は、一般的な日本語の辞書である広辞苑第五版(岩波書店)では、以下のように定義されています。 ①下絵。素描。図案。 ②意匠計画。生活に必要な製品を製作するにあたり、その材質・機能および美的造形性などの諸要素と、技術・生産・消費面からの各種の要求を検討・調整する総合的造形計画。 日英、何れもおおよそ「計画・企画・設計」と「意匠・装飾・演出」という二つの意味に集約できますが、「意匠・装飾・演出」の意味のみが、単体として用いられることもあるという点は注意しなければいけません。ここでは、あくまでも語源に基づき「計画・企画・設計」と「意匠・装飾・演出」の双方を兼ね備えていることが、デザインにとって必須の要件であると考える立場を取ります。もう一点、留意すべきこととして、日英の辞書による定義では「生産」や「製品」・「消費」といった言葉が共通して用いられています。これは、デザインによって得られる物品は、芸術品や工芸品のような制作行程ではなく、管理・量産を目的とした製造工程を経る「製品」または「商品」である、ということを意味しています。つまり、デザインとは営為を目的とした行為であるといえます。 ・川崎和男: デザインのことば「て」, AXIS, 111, 2004 ・The Concise Oxford Dictionary - Tenth Edition (Oxford University Press 1999) ・広辞苑第五版(岩波書店)

『命と向き合うデザイン』 

 新・デザインについて−1

デザインについてまとめてみます。いくつかの視点から見ることができるが、ここでは「design」という言葉そのものや、その歴史について見てみます。デザインについて、まず、designという単語について詳説します。designの意味は川崎による「デザインのことば」にその詳細が記述されています。そこから引用すると、この語はラテン語の「designare」を語源として持つとのことです。designareがdo signとなり、それがdesignへと変化しました。つまり、designare = do signとは「目印を付ける」という意味になります。ここから、現在の工業製品において一般的に用いられるデザインの意味が生まれました。一つは「つくる対象物」を取り巻くあらゆる要素・要因を考える「計画・企画・設計」であり、もう一方は、「つくる対象物」そのものの要素・要因を考える「意匠・装飾・演出」と言えます。これら二つの意味を統合されたものとしてデザインは問題を解決するための手法として用いられています。ここで現在、一般に用いられている辞書による定義を引用します。まず、The Concise Oxford Dictionary - Tenth Edition (Oxford University Press 1999)によるとdesignとは以下のように定義されています。 [n.] 1. a plan or drawing produced to show the look and function or workings of some thing before it is built or made. -> the art or action of conceiving of and producing such a plan or drawing. -> purpose or planning that exists behind an action or object. 2. a decorative pattern. [v.] decide upon the look and functioning of (something), especially by making a detailed drawing of it. -> do or plan...

『命と向き合うデザイン』 

 細胞シートによる治療−3

培養速度とは、細胞の培養に必要な一定時間に関する問題です。現在、心筋の治療に必要な筋芽細胞の培養には、およそ4週間必要です。多少の個人差はありますが、多くの場合約1ヶ月の時間を要します。一つ目の固体差異に関する問題と、2つ目の「細胞速度」は培養時間に関する問題として密接に関係しています。もし、対象の細胞が培養を行っても規定数に達しなかった場合、4週間後にもう一度採取から始めなければいけません。つまり、治療が決定してから合計8週間(約2ヶ月)後に治療を行える状態が整うことになります。もし、細胞が規定の時間で規定数に達したとしても、患者が救急車で病院まで運ばれてきた直後に細胞を採取できたとして、そこから約1ヶ月は治療を行えないという現実があります。現在、対象疾患になっている拡張型心筋症や虚血性心筋症はともに、緊急度・重篤度が高いため、そのままの状態で待機することは不可能です。多くの場合、補助人工心臓をつけることで心機能の回復を待つことになります。また、治療に取りかかれるまでの時間は、多くの場合予後に影響を与えます。特に対象が心臓である場合、心臓だけでなく、全身に対して影響があることから、予後の影響は大きくなります。心臓を対象に検討していますが、角膜組織の治療の場合にも患者本人の口腔粘膜細胞2平方mmから約2週間掛けて角膜上皮細胞シートを120平方cm程度の大きさまで培養する必要があります。つまり、対象となる疾患や箇所によって時間は異なりますが、いずれの場合も数週間という単位で治療開始までの時間が必要であることは変わりません。また、培養しているものがヒトの細胞である以上、細胞そのものの培養速度が大きく変化することはないため、外的要因が加えられなければ治療までにかかる時間は変わらないことになります。3つ目の問題である「同疾患発症」は、遺伝的な要因を含むことから考えられている問題の一つです。現在治療対象の拡張型心筋症や虚血性心筋症は、いまだすべての原因が明らかになったわけではありません。その原因に遺伝子に依存するものがある場合、自己由来細胞シートは同様の疾患を発症する可能性を持っていることになります。 ・大阪大学医学部附属病院: ヒト幹細胞臨床研究実施計画書の修正について, 第51回科学技術部会資料, 2009 ・阿形清和他: 再生医療生物学, 現代生物化学入門7, 岩...

『命と向き合うデザイン』 

 細胞シートによる治療−2

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細胞シート工学による治療における問題点をまとめてみます。再生医療全体にかかる問題点は以前もまとめました。このうち、細胞シート工学による心臓への治療と、対象を絞り込んだ場合、すでに臨床応用が始まっている点から、法的な問題に含まれる有効性・倫理性の問題は回避できています。また、生物学的な問題に含まれる実用性と安全性の問題に関しても、今後も観察は必要ですが、現状では問題は顕在化していません。残る問題として、効率性に関するものがあります。効率性に関係する問題は「固体差異」と「培養速度」、それに「同疾患発症」を挙げています。「固体差異」とは、患者の細胞によっては培養量が不足する問題です。この細胞ごと発生する差異性の原因は、いまだ不明ですが、この現象に起因する問題は顕著です。一定時間経過した後に培養量が少ない患者は、筋肉組織をもう一度改めて採取する必要があります。これは治療開始時間の遅延につながる問題である。再びゼロベースから培養はスタートされます。さらに、患者から細胞を採取するためには胸部麻酔、または全身麻酔が必要です。患者が高齢や他の疾患を抱えている場合、麻酔は決して安全な処置ではありません。その分だけ身体に負担をかけることになります。そして、二度目の採取を行い、培養をしても、規定の量まで細胞が増殖しなかった場合、本治療は受けることができません。 ・大阪大学医学部附属病院: ヒト幹細胞臨床研究実施計画書の修正について, 第51回科学技術部会資料, 2009 ・阿形清和他: 再生医療生物学, 現代生物化学入門7, 岩波書店, 2009

『命と向き合うデザイン』 

 細胞シートによる治療−1

人工物としての人工心臓埋込術について確認してきましたが、ここからは細胞シート工学を用いた心臓の治療について詳説します。現在、症例数はまだ少なく、治療方法が完全に決定しているわけではありません。また、再生医療の特徴である患者から細胞を採取するという点が最もばらつきがあるため、かかる時間なども個人差が生じやすいと見られています。おおよその流れは以下の通りです。まず、局所麻酔または全身麻酔のもと、下肢、主に大腿部から10g程度の筋肉を採取します。筋肉組織から筋芽細胞を単離し、およそ4週間かけて500平方cmのフラスコ40個分まで培養します。この時点で培養ができていない、または培養量が既定値に達していない場合は、もう一度筋肉採取から行いますが、2回採取を行ってもシートが作成できない場合は中止となります。培養は温度37℃、湿度100%、二酸化炭素濃度5%に設定されたインキュベータ内で行われます。そして、培養した細胞を集め、直径100mmの培養皿で25枚分の筋芽細胞シートを作成し、手術までの間、同様の環境で保管します。その後、開胸手術を行い、細胞シートを移植する、というのが一連の流れです。現在は、手術前・手術直後・2週間後・4週間後・12週間後・24週間後と、計6回の検査と観察を行い評価しています。 ・大阪大学医学部附属病院: ヒト幹細胞臨床研究実施計画書の修正について, 第51回科学技術部会資料, 2009

『命と向き合うデザイン』 

 新・人工心臓−14

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これらは症状の程度による分類ですが、ここで人工心臓との関係を考えてみます。現行の人工心臓は各要素を体内と体外で分割して配置され、体外に設置される要素も、基本的には常に携帯しなければいけません。その点を考慮しながら現在開発が進められている各人工心臓を見てみると、例えばDuraHeartなどは肩から鞄を一つさげるだけで移動が行えますし、EVAHEARTも小型のカートを引いて移動すれば良いですが、国立循環器病センター型はポンプ自体が体外にぶら下がっている状態であり、すべての要素を持って移動することは容易ではありません。これらをICIDHやNYHAと照らし合わせて見ると、DuraHeartやEVAHEARTは社会的不利=NYHA Ⅱ度に当てはめることができると考えられますが、国立循環器病センター型は機能障害=NYHA Ⅳ度に当てはまると言えます。つまり、人工心臓は生命維持が目的ではありますが、その先にある患者の生活を維持することが最終的な目標なのだと言えます。その視点で見れば、DuraHeartは移動が難しくないと表現しましたが、何も持たずに出かけられるに越したことはなく、現在最も優れた製品であっても課題は残っていると言えます。 独立行政法人国際協力機構 課題別指針「障害者支援」, 2009

『命と向き合うデザイン』 

 新・人工心臓−13

心不全の程度を表す分類に「NYHA分類」というものがあります。これはニューヨーク心臓協会(New York Heart Association)によって定められたものであり、心臓の重傷度を4種類に分類することができます。NYHA Ⅰ度「心疾患があるが症状はなく、通常の日常生活は制限されないもの」。NYHA Ⅱ度「心疾患患者で日常生活が軽度から中等度に制限されるもの。安静時には無症状だが、普通の行動で疲労・動悸・呼吸困難・狭心痛を生じる」。NYHA Ⅲ度「心疾患患者で日曜生活が高度に制限されるもの。安静時は無症状だが、平地の歩行や日常生活以下の労作によっても症状が生じる」。NYHA Ⅳ度「心疾患患者で非常に軽度の活動でも何らかの症状を生ずる。安静時においても心不全・狭心症症状を生ずることもある」。このNYHA分類と、ICIDHの関係を考えてみます。NYHA Ⅱ度以下の症状とICIDHの全分類を比較してみると、それぞれ、機能障害:NYHA Ⅳ度、能力障害:NYHA Ⅲ度、社会的不利:NYHA Ⅱ度と対応づけることができます。 独立行政法人国際協力機構 課題別指針「障害者支援」, 2009