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『Consilience Design』   

 正しい日本語?

辞書に載っている言葉は、 編集者に依って、決められています。 記載されている内容も然りです。 そうなってくると、 「正しい日本語」とは何なのか、 という問題が生じるように感じます。 中学高校で学習した、 古語、 と呼ばれるものを、 現代社会で用いれば違和感があります。 間違っている、とは言い切れませんが、 現代語ではない、とは言えそうです。 では、その現代語、とはいつからのもので、 恒久的なものかと言えば、そうではない、ということになります。 だって、辞書の内容が変わっていくわけですから。 以前は、「全然〜〜〜ない」という表現が正しかったわけですが、 現在ではそうではありません。 漢字の読みにしても、 「重複」を「ちょうふく」と読む人がどれだけいるでしょう。 「食すことができる」ということを「食べられる」と言える人が、 どれだけいるでしょう。 はたまた、 「確信犯」の意味を 「道徳的・宗教的または政治的確信に基づいて行われる犯罪。  思想犯・政治犯・国事犯などに見られる」と 知っている人がどれだけいるでしょう。 正しさとは何なのか、を考えた場合、 テストで○をもらえる正解を知っていることに、 意味があるのだろうか、と疑問に思えてきます。

『Consilience Design』   

 師弟

先日のブログを読んでくださった方から、 「宮大工・西岡常一」さんの ドキュメンタリー作品を教えてもらいました。 「鬼に訊け」 まだ見ることができていませんが、 西岡常一さんについて調べてみて、 現代における問題と重なり合うところがありました。 それが、タイトルにもなっている師弟感です。 西岡家は、完全に父子による伝承です。 ご本人が子どもの頃にお祖父様、お父様から習い、 自分も、娘婿さん、お孫さんへと、伝えていく。 現代において、これが如何に難しいことか、 その渦中にいない人でも多分、想像はできると思います。 私が関わらせていただいているいくつかの産地も、 この問題を抱えています。 職業選択の自由、 などという時代錯誤な話しをする気はありませんが、 確かに昔は、父親がやっている仕事を見て、 何となくそういう方向に、心が向いていく、 または、そういうものなのだと、心が納得していく、 ということがあったのではないでしょうか。 現代では、良くも悪くも、 様々な情報を得ることができてしまいます。 以前なら、物理的に目で見ることができうる範囲が、 その人にとっての世界でした。 しかし、もちろん今は違います。 物理的には見えていないところも、 まるで自分の世界であるかのように、 感じることができるようになりました。 そこにある「現実感」「本物感」「迫力」、 そういったものは現代において、 どのように変化しているのでしょう。 モノ、に携わる者として、 そのことはとても重要なことです。