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装飾的な意匠

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チョコレートのパッケージです。 こういう装飾的な造形は、 自分でやろうと思ってもうまくできません。 パッケージのデザイン、という表現をすると複雑になりますが、 意匠が持つ一つの力とも言えます。

重なっていくもの

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大阪の時から一緒にいる子です。 それまではハロウィンは何かをした覚えもないのですが、 なんとなく、その季節ごとのイベントを重ねていくのは、 興味深いと感じます。 よく、時間の流れが速くなる、という表現を聞きますが、 私自身はまだそういう意識はありません。 常に色々なことが起こり、 乗り越えていっている印象です。 一つ一つを重ねて行きます。

裾分という言葉

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写真のモノは頂き物、なので、 御裾分けではないのですが、 ふと、その言葉が頭に出てきたので、 英語の辞書で検索してみると、 文章としては表現できるようですが、 それに相当する単語はないようです。 良い文化なのにな、と感じました。

1,700枚

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以前、 スマートフォンでも同じアングルで撮影 したショットです。 最近の携帯電話のカメラは、 本当に高性能で、画角も広くなっています。 一方、この写真は52mmのレンズで撮影。 所謂標準レンズと言われている画角になりますが、 フィルムで撮るようになってから、 このサイズ感が好きになりました。 けられる領域があるからこそ、 見せたいところが明確になるように感じます。 昨日、たまたま昨年から今まで、 フィルムで撮るようになってからの枚数を簡単に計算してみたところ、 1,700枚ほど撮っているようでした。 塵も積もれば、ではありませんが、 こんなに続くとは、正直思いませんでした。 自分が表現したい、と感じるものが撮れるようになるまで、 頑張ってみます。

表現としての写真

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春先、まだ肌寒い季節でしたが、 公園では多くの家族連れが遊んでいました。 そのうちの一家族、親子で向こうの方に走っていきました。 今はこんな風景もなかなか見られなくなりました。 記録としての写真ではなく、 表現としての写真を意識するようになり、 自分にとって写真は何なのか、 考えながら撮っています。

Konishirokuの表現力

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Konica FMのHexanon 52mm F1.4は、 撮影最低距離が60cmのはずですが、 それ以上に寄ることができている印象です。 絞りの最低値も1.4と明るいレンズなため、 被写界深度がとても浅い印象を受けます。 ブツ撮りでは絶対にやらないような撮り方ですが、 場面によっては面白い効果が出ます。 特にKonishirokuのレンズの力なのか、 色味やボケ具合、いずれも非常に私好みで、 やっぱりこのカメラは面白いなぁと考えさせられます。 たとえどれほど重くても。

シャンデリア写し取る

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よくここまで微細に表現できるな、 というのが正直な感想です。 70年以上前のレンズとカメラで、 ここまで写せることが、 純粋に技術として素晴らしいと感じます。 そして、その機器を今でも使用することができるという素晴らしさ。 昔のモノは丈夫、とは言いますが、 それに加えて、使っていた人が愛情を持って接していたのだと、 考えずにはいられません。

OLYMPUSが見ている世界

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父が以前使っていたOLYMPUS OM-1。 現像に出していたフィルムが返ってきました。 本当に昔のプロダクトは素晴らしい。 何十年の時を経て尚、こんな綺麗な絵を残してくれるんだな、 とつくづく考えさせられました。 波の動きの表現に、 太陽の光の表現、 それらが相待って一枚の絵になっています。 これを撮る時、少なくとも私の目にはこんな絵には見えていなかった。 これはOLYMPUSというカメラのレンズという目が見た世界。

見える世界

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少しずつドローンを使って遊んでみています。 高視点から周囲を眺めるということがなぜこんなに楽しいのか、 自分でコントロールするということがなぜこんなに楽しいのか、 新しいプロダクトで遊ぶということがなぜこんなに楽しいのか、 そんなことを考えさせられています。 ただ、逆に言えば、それを越えたところに本当のアウトプットがある、 のだと感じて来ることも多くあります。 これをどのように使うのか、 これを使って何を表現するのか、 それを考えていくのが楽しいところです。

時空を切り取る

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人がうまく隠れてくれました。 普通なら、 あ、隠れちゃった!とか、 ブレちゃってる!とか、考えるところなのかも知れませんが、 秋の始まりに撮った写真として考えてみると、 紅葉が始まり、肌寒くなり始めた季節に、 木の向こう側を自転車で走る抜ける人影、 と捉えることができます。 幸い顔も写っていないのでそのまま載せることができましたが、 そんな、時間と空間を切り抜く、というのが、 写真の醍醐味なのだと、考えるようになってきました。 スナップショットの考えは、 肖像権と相俟って、昨今は特に難しくなっているようです。 表現とは何かと考えなければいけません。

自然のハレーション

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とにかく、そこら中に彼岸花があふれていました。 絨毯と言っても過言ではないほどの量で、 鮮烈な「赤」が視界に飛び込んできます。 茎の部分の緑と完全な補色になり、 ハレーションを起こしていました。 写真で見てみても、 フィルムでは、花の輪郭部分が白として強調され、 不思議な表現になっています。

一定時間を切り出す行為

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じっとしているつもりでも、 やっぱり体は動いてしまっているわけで。 プラスチックレンズによるブレと、 手の振動によるブレは、 とてもわかりやすく見分けがつきます。 以前も書きましたが、 写真とは瞬間を撮るものではない、とつくづく感じます。 一定時間を切り取るというのが近い表現なのでしょうか。 それは、以前カンディンスキーの絵を見たときに感じたことだな、 となんとなく思い出していました。

光の表現

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最近遊んでいるピンホールカメラで撮った一枚です。 すごく久々に飲み屋で食べたい、ということになり、 駅前で夕食をとることになりました。 天井から裸電球が吊るされているお店で、 その部分はそこそこの明るさがありました。 時間さえかければ写るかなと思い、 食べている傍らで、30秒ほど露光させたところ、 面白いものが撮れました。 絵で光を描いたり、 照明の様子を表したりする場合はありますが、 この写真のように描くことはあるかなぁ、 と考えさせられました。 何かを表現するための方法には、 実に様々なものがあります。 まだまだ色々知らなければなりません。

行き交う

朝の情報番組を見ていたところ、 「ん?」というタイミングがありました。 画面には「交通量」と表示されていましたが、 音声では「通行量」と発音されていました。 気にすることでもないのでしょうが、 二つの言葉の違いを説明できないことに気がつき確認してみました。 それぞれ、うちの広辞苑によると量のつく言葉はありませんでした。 「交通」:人のゆきき、ゆきかよい。      運輸・通信の機関による人の往復、貨物の輸送、通信などの総称。 「通行」:通って行くこと。通ること。      一般に広く用いられていること。流布。 前者は、現象を表現し、 後者は、行為を表現しているようです。 しかし、ネットで少し調べてみると、 交通量・通行量は、それぞれ下記のように考えられているようです。 主に「徒歩」で通過する人々の数の場合は通行量、 主に「車両」の通過する数の場合は交通量、のように区別します。 なんとなくですが、印象としてはそのように伝わります。 ラングというよりはパロールなのかもしれませんが、 仕事から使い分ける場合などは有効そうです。

† 体に覚えこませる †

新しい言語を習得したり、 身体を使って新しいことができるようになる、 という場合、 体が覚える、 体に覚え込ませる、 という表現を用います。 人間は、頭でわかっている、ということと、 それをうまく使うことができる、ということとは、 別物です。 今、AIに関する本を読んでいます。 「如何に学習させるか」という部分を読み進めていますが、 ロボットの場合、学習することができた内容は、 そのまま活用することができます。 非常に効率が良い、と言えます。 その点、人間は、、、 しかしながら、そこには何か重要なことが隠されているとも感じます。

‡ 現代におけるAIを考えてみる⑦ ‡

ビッグデータとは何か、 何がビッグデータか、ということを考える場合、 その一つの解は、 「機器に柔軟性を持たせるもの」という言い方ができるようです。 三段論法では説明がつかない人間の考え、 Aを見たときに、それがAである、と認識する能力などがそれですが、 それを機器に導入する際に活用できると考えられたのが、 ビッグデータのようです。 見極めさせたい対象の画像を大量に見せる、 それによって学習してもらう、 言葉で表現するのは簡単ですが、 これをきちんと定義するのは大変です。 「見極めさせたい対象」であることをどのように定義するのか。 ラベリングするのか、ということが難しいことは、 容易に想像がつきます。 この、「どの画像に何が写っているか」というラベルをつけたものを、 教師データと呼ぶそうです。 Digitalの「1」「0」の世界において、 それを示す、ということの難しさと「手間」は すごいコストになります。 その部分を機器に頼ることができれば、 どれだけに楽になるだろうか、と考えずにはおれません。

‡ 現代におけるAIを考えてみる③ ‡

何かを対象として考えを巡らす場合、 その起こりや経緯、つまり、歴史について整理してみることは重要です。 では、AIについてはどうなのか、 一般的には1956年から、という考えのようです。  「ロジック ・セオリスト 」という世界初の人工知能プログラムのデモンストレ ーションが行われ、 数学の定理を自動的に証明するプログラムだったそうです。 1956年、私はまだ生まれていませんが、 戦後の高度成長を進めている途中、 メルボルンオリンピックが開催され、 日本は国際連合に参加した年のようです。 その頃、アメリカのダートマス大学では、 世界に先駆けて人工知能の兆しが見えていたことになります。 コンピューターの歴史、と言うと表現が難しいところですが、 何れにしても現代のように一般的ではなかったことは当然のことで、 その頃からすでに開発が始まっていた、と言うことに驚かされます。 ただ、どうもその時々で、目新しいトピックスが発生すると、 盛り上がっていたようではあります。 その考えでいくと、現代は、第3期と表現できるようです。

‡ 現代におけるAIを考えてみる① ‡

AI(artificial intelligence)という言葉をよく目にするようになり、 人工知能という一般的な訳語によって、 「なんとなく」理解しているような気になっています。 一度、現状の「AI」と呼ばれているものを自分の中で整理してみます。 「AI VS. 教科書が読めない子どもたち」という本から、 気になった用語を抜粋しつつ、自分の中で理解を試みます。 この本は「AIはまだどこにも存在していない」という立ち位置から始まります。 多分、多くの人はここでようやく、 「そもそも、AIってなんなんだ?」ということに気づかされると思います。 つまり、なんとなく言葉は知っているが、 その定義は誰にも聞いたことがない、 それこそが、現在のAIが抱えている大きな問題ではないかと感じます。 書籍の中では、 「人工知能の目標とは 、  人間の知的活動を四則演算で表現するか 、  表現できていると私たち人間が感じる程度に近づけること」 とまとめられています。 ラングではないため、 表現は他にもあると感じますが、 ここではこの定義に従って進めて行きます。

Method①: 部首とは何か。何が部首か。

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部首とは、「全ての漢字に一つの部首が割振られる」とあります。 この一文は二つの要点を示しています。 ・全ての漢字が必ず部首を要すること ・部首は一つの漢字に一つであること この二つが満たされることによって、 漢字は部首によって分類することが可能になります。 部首とは別に、漢字の構成を表す言葉として、 偏旁という言葉があり、読んで字の如く、 漢字の「偏(へん)」と「旁(つくり)」を表しています。 更に表現はないのかと調べて見たところ、 次の7つに分類できるようです。 偏(へん):左側に位置する 旁(つくり):右側に位置する 冠(かんむり):上側に位置する 脚(あし):下側に位置する 構(かまえ):外側に囲むように位置する 垂(たれ):上部から左側を覆うように位置する 繞(にょう):左側から下側をとりまいて位置する これは、厳密には部首のように 対象を特定・限定できるものでは内容ですが、 「漢字」というものが如何に構成によって成り立っているか、 ということを表現しているとも言えます。