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公衆浴場

湯治という言葉があるように、 古くから温泉は日本人の体を癒してきました。 私の実家がある市の駅は、 かみのやま温泉という名称で、 その名の通り、以前はたくさんの温泉宿が立ち並んでいました。 当時、実家から5分程度のところにも、 いわゆる公衆浴場があり、 昼間から多くの人が通っていたことを覚えています。 これは、 間違いなく一つの文化であり、 今の時勢だからこそ、残されるべきものです。

裾分という言葉

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写真のモノは頂き物、なので、 御裾分けではないのですが、 ふと、その言葉が頭に出てきたので、 英語の辞書で検索してみると、 文章としては表現できるようですが、 それに相当する単語はないようです。 良い文化なのにな、と感じました。

長距離移動

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今日は久々の遠出でした。 ご提案をいただき、伺うことができました。 自粛ムードが続く中、 中々いつ動けば良いのか、その判断が難しくなっていることを感じます。 特に、自分の行動が他者の迷惑になる可能性があるという言葉は、 思いの外、意図していない相手に対してのみ、 影響力を持つようにも感じます。 状況との付き合い方を考えることが重要です。

微細な空気感

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テレワーク、という言葉が一般化しました。 都内の方では未だにその状況が続いているようです。 教育現場でも、やがてはそうなのかも、 という感はもちろんありますが、 まだ難しいのかもしれない、という気がしています。 ゼミや授業、それぞれ、ある意味スライドを流しながら、 ネット越しでも問題ない、といえばそんな気もしますが、 やはり細かいリアクションを見ながら動いている自分がいます。 その空気感をつかめるシステムが出来上がれば可能かもしれません。

二つの距離

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3密という言葉は、流行語になりそうな勢いで使われています。 これからしばらくの間、もしかしたらずっとこの先かもしれませんが、 人との距離はその関係性を示す重要な役割を果たすようになります。 もちろん今までもそういった傾向はありました。 二人の人が、肩が触れ合うような距離で歩いていれば、 近いのは物理的な距離だけではないことを示していました。 しかし、これからは、そんな距離でいる、ということは違う意味を持ちます。 普段から常にそういう距離でいる人たちであることを、 他者に対して示すことになるからです。 人同士の精神的な距離を縮めることと、 物理的な距離は密接に関係していると考えています。 つまり、友人のつくり方、そういったものも変わっていきます。

偶然を待つ

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以前、たまたま見かけた橋の力強さに何枚か写真を撮りました。 丁度鳥が飛んできたので、うまくおさまればラッキー、 くらいの気持ちでシャッターを切ったのですが、 それがうまくいったようです。 もしも仕事と考えた場合、 もちろんラッキーではダメなのですが、 その時、 たまたま鳥が飛んでいて、 たまたまシャッタースピードや絞りの設定がうまくいっていて、 たまたま良いアングルの場所にいて。 写真家の人の言葉で、 良い写真を撮るためには待つことが重要というものがありましたが、 確かにそうなのかもしれません。 「来い、来い、あの辺に飛んで来い」と思いながら、 構えて待っていました。

氾濫しているコトバ

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生活用品を購入するため、 近所に買い物に。 それくらいの外出くらいしか許されていない、 そんな印象を受ける今日この頃です。 不要不急の外出、というのがどこまでのものなのか、 医療崩壊が始まっている、というのはどれ程のものなのか、 オーバーシュートなどのカタカナ語だけでなく、 いろいろな言葉が定義を示されずに報道され、 その字面だけでも萎縮してしまっているような、 そんな日々です。 今の状況を冷静に見つめ、 何をすべきか、何をすべきでないか、 見極めなければなりません。

どこを見詰めているのか

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被写界深度というとすごく難しい言葉だなぁと感じますが、 要は、ピントが合っている範囲はどれほどなのか、ということです。 しかし、これ、考えてみるととても興味深いことです。 人間が対象を見つめているときも、 厳密に言えば、ピントが合っている範囲は極めて狭いはずです。 ただ、眼球が微動することで、 その範囲を広げていることになります。 そういう意味では、単位時間あたりの空間を切り出す写真としては、 その時間でどれだけの範囲を見詰めているのか、 ということにもなるのでしょうか。 (勿論原理は違います) そう考えると、被写界深度とはレンズが微動しているようにも感じます。 (勿論実際は違います)

単焦点で学べること

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最初はKonicaの52mmのレンズしかなく、 しばらくその画角で撮っていました。 その後、たまたま広角が手に入り、 広い空間を撮れるようになりました。 広角や望遠など、言葉では理解していましたが、 現代のカメラは大体のものが多少なりともズームすることができ、 画角の制約はあまり感じることがありませんでした。 単焦点のレンズを持つようになって、 初めて、どういう絵として画面に収めるか、 自分の考えを内包することができるようになってきました。

感謝の一年

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今年も一年、なんとか歩いてきました。 自分がどうなるのか、わからない状態で今年の元日を迎えました。 多くの方にご心配をおかけし、また、有難いお言葉をたくさんいただいてきました。 環境も完全に新しいものになり、 自分が知らない土地、知らない人々の間で生きてきました。 いつもいつも助けられて生きていることを、 自覚し続ける人生です。 今年も一年、ありがとうございました。

切り取る

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写真を撮る、ということは、 ある空間をフレームで切り取る、という行為です。 どの部分を、どう切り取るか、いつも考えさせられます。 構図、という言葉がありますが、まさにそれです。 もちろん後からでもトリミングをすることはできますが、 でき得ることなら、最初から狙ったフレーミングで、 完成した形を目指したいと考えています。 タイミングよく、構図を狙って、シャッターを切れるか、 心の中はいつもその鬩ぎ合いです。

二つの世界

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この時間、目で見える世界はほぼ真っ暗でした。 絞りを絞って、シャッターを開くこと約30秒間。 こんな風に写ってくれるなんて、と嬉しくなります。 自分の目でも見えていないものが、 カメラの目を通すとこうして写ってくる。 この感覚をなんと表現するべきなのか、 まだ自分の中に言葉がありません。

学び舎

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東日本大震災のあった2011年からの3年間、 私自身がお世話になった学び舎が福井にあります。 学生たちの学び舎でありつつ、 私自身が一番学ばせてもらったと感じています。 本日、その研究室だった場所が、 綺麗になっていました。 清掃され、整備され、全てが元通りになっていました。 「綺麗になる」という言葉が、 こんなに寂しい意味を持つのだと、 初めて感じました。

風呂を示す象徴

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出張先でたまたま宿泊したホテルには、 大浴場が付いていました。 夜中になりましたが、 日中の汗を流すべく、入りに向かいました。 そこで、まさか、このアヒルに会うとは思いもせずに。 なぜかこのアヒルはお風呂とセットです。 調べて見たところ、ラバー・ダックと呼ばれているようです。 泊まったホテルはビジネスホテル。 利用者の多くは社会人であり、 私が入ったのはもちろん男性用のお風呂です。 そこで浮かぶ黄色いアヒル(8羽!)。 面白いなぁ、としみじみと感じながら汗を流しました。 因みに、彼らの底面には、様々な国の言葉で 「ありがとう」と書かれていました。

単機能の美しさ

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美しい道具は沢山あります。 写真の道具は、自転車のチェーンをカットするためだけに用いられる道具です。 正確には、チェーンをつないでいるピンを抜くための道具。 その作業を他の道具で代用しようと思うと、 非常に難しいことになると考えれば、専用の道具があってしかるべき、 とも言えます。 チェーンを挟む部分や、 捻っていく把手、 持ち手の部分など、 それぞれが適切な大きさであり、 適切な角度で接続されています。 そういう必然性から生まれていると考えると、 形態は機能に従う、という言葉が思い出されますが、 本当にそうなのだろうか?と、 逆に考えさせられる美しさを感じます。

行き交う

朝の情報番組を見ていたところ、 「ん?」というタイミングがありました。 画面には「交通量」と表示されていましたが、 音声では「通行量」と発音されていました。 気にすることでもないのでしょうが、 二つの言葉の違いを説明できないことに気がつき確認してみました。 それぞれ、うちの広辞苑によると量のつく言葉はありませんでした。 「交通」:人のゆきき、ゆきかよい。      運輸・通信の機関による人の往復、貨物の輸送、通信などの総称。 「通行」:通って行くこと。通ること。      一般に広く用いられていること。流布。 前者は、現象を表現し、 後者は、行為を表現しているようです。 しかし、ネットで少し調べてみると、 交通量・通行量は、それぞれ下記のように考えられているようです。 主に「徒歩」で通過する人々の数の場合は通行量、 主に「車両」の通過する数の場合は交通量、のように区別します。 なんとなくですが、印象としてはそのように伝わります。 ラングというよりはパロールなのかもしれませんが、 仕事から使い分ける場合などは有効そうです。

造形を施す

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障子窓にこんな造形を施す。 そういう感性はどこから来るのでしょうか。 学びの場所に対して、 なぜ、こういうかたちを与えるのか、 そういった考えこそが、私の研究対象でもあります。 センスや感性という言葉に封じ込められていますが、 それは何に依るものなのか。 一つにはその人が触れてきたもの、ということは言えると思いますが、 それだけなのでしょうか。 学び、習うことはできるのか、 そのために効率的なことはなんなのか、 考えています。

話をする、ということ。 直接なのか、 電話でなのか、 ネット越しなのか、 近いのか遠いのか、 色々な話のスタイルはあります。 何れにしても、言葉のやり取りを行うということは、 それを通して、関わった人に何らかの影響を与えるものと理解しています。 言葉のやり取りによって情報を共有しているにも関わらず、 実際は、言葉以上の情報を共有できている点が重要なのだと感じます。 今は、人とのやり取りを想定して書いていますが、 これもやがてロボットに置き換わっていく部分はあるのかもしれません。 一つの大きな議題だと考えます。

一人はみんなの、、、

「一人は皆のために、皆は一人のために」 という成句があります。 英語の勉強の流れからたまたまこの言葉が出てきたのですが、 英語では"One for all, all for one"となります。 大デュマの書いた「三銃士」の中で出てきた言葉、という印象ですが、 どうやら元々も言葉、フランス語では、次のように書かれているそうです。 "Tous pour un,un pour tous" フランス語は全く読めないのですが、 どうやらこれは、"All for one"「皆は一人のために」が先にきているとのこと。 ひっくり返ってしまったのか?と思い、 調べて見ると、どうやら元々々は、ラテン語にあるようです。 "Unus pro omnibus, omnes pro uno" もちろんこちらも読めないのですが、 これはどうやら、英語と同じ並びとのことです。 チームワークなどを指し示す言葉としてスポーツでも使われますが、 順番次第で印象が変わるものだなぁ、とちょっと感じてしまいました。

† think †

昨日、英語の調べ物をしていた時に、 目的とは違うのですが、あるページを見てメモしたことがありました。 thinkを「思う」と捉えた場合には、 状態動詞であり、進行形を取ることはできないが、 thinkを「考える」と捉えた場合には、 動作動詞であり、進行形を取ることができる。 日本語、特に、漢字として考えた場合には、 「思う」と「考える」は全く違う言葉です。 もちろん、英語にも、日本語のそれぞれの意味に当たる言葉はありますが、 ニュアンスを伝える、ということは難しいことなんだな、と、 改めて考えさせられました。