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『命と向き合うデザイン』 

 窘め方

「形」は「言葉」をつくり、 「言葉」は「形」をつくります。 電車の中で、 子供を窘めているお母さんがいました。 しかし、その言葉、 あまりにも酷い。 表しているモノ(signifiant)と 表されているモノ(signifié)を繋ぐためには、 langue が必要です。 子供、 本当に言葉を覚えて間もない子では、 完全にlangueを習得できていることはないでしょう。 しかし、だからと言って、 signifiant(言葉)とsignifié(意味)が つながらないと考えることは早計です。 子供は、言語を習得するために、 身近な人からの言葉、 つまり parole によって、 言語能力を発達させます。 「意志と知能の個人的行為」と書きましたが、 個人的「行為」、つまり、 この単語が指し示す意味は、 言葉そのものだけではありません。 non-verbalな行為も含むことになるのです。 langueが完全に出来上がっていない子供達は、 情報の多くを言葉そのものよりも、 non-verbalな部分から抽出し、 意味を保管します。 つまり、 言葉がまだまだ拙い子供でも、 お母さんの話す言葉の意味は、 お母さんが思っている以上に、 文字通り、肌を通して、 敏感に感じ取っているのです。 そして、 言葉は形をつくります。 酷い言葉で育てられた子供が、 美しい大人になることは、 あるのでしょうか。

『命と向き合うデザイン』 

 「一旦止まれ」

変わる情報と、 変わらない情報 変わった方が良い情報と、 変わらない方が良い情報 変わるべき情報と、 変わるべきではない情報 あるcontents(何)を、 何時(when)・ 何処で(where)・ 誰に(who)・ どうやって(how)提供するのかによって、 情報の形は変化する、 と考える時、 この3W1Hはcontextということになります。 一見、 contentsが姿を変えているように見えますが、 実際は、contextによって、 contentsの見え方が変わっているに過ぎません。 例えば、 「一旦止まれ、ということ(what)」を、 運転中(when)に 道路(where)で、 運転者(who)に、 視覚的に伝えたい(how)場合と、 はたまた、 登録中(when)に、 Web(where)で、 ユーザー(who)に、 視覚的に伝えたい(how)場合とでは、 howが同じでも、 物理的条件が異なるわけですから、 表現も異なります。 しかし、 同じmotifを用いることで、 同様の効果を狙うことはありますが。 同じcontentsが、 contextによって変更されています。 情報を発信していく時は、 自分の持っているcontentsを 如何に 効果的に・適切に相手に伝えることができるかを contextをもって考える必要があります。

『命と向き合うデザイン』 

 英と漢

何気なく使っている言葉でも、 文字にする時に悩むものがあります。 特に、 「これって漢字あるのか知らん?」と思われる言葉。 調べてみると結構あってびっくりします。 そんなこんなで辞書を引いたりしていると、 ついつい、言葉の源を調べたくなったりします。 英語の語源と漢字の語源。 私はよく引き合いに出します。 と言っても、この二つ。 実際には対比関係になってないので、 比較することがそもそも変ですが・・・。 英語がどんどん先祖に戻っていくのに対して、 漢字はある意味に収束することが多いです。 私が取り上げている言葉の多くが、 英語=単語 であるのに対して、 漢字=文字 だから生じる差異でしょうか。 表音文字・表意文字という言われ方もありますが、 表音文字と言われているアルファベットも、 表意の側面を持っています。

『命と向き合うデザイン』 

 “陸とはろく”

テキスト化したので載せてみます。 「陸なもの」は「ろくなもの」と読みます。 「陸でもない奴だ!」などとは、 あまり言われたくない言葉です。 「陸」とは、 『漢字源』(学習研究社/藤堂明保)によると、 「会意兼形声。  右側の字(音リク)は「土+八(広がる)+土」の会意文字で、  土が高く積もって広がった様。  陸はそれを音符とし、阜(おか)を加えた字で、  盛り上がって連なるの意を含む。」とのこと。 そこから、 「陸」の字には、 「水平なこと」や「平坦なこと」、 「歪みがなくて真っ直ぐ」などの意味があり、 「正しいこと」「真面目なこと」「きちんとしていること」を 表すようになりました。 つまり、 「陸なものではない」とは、 「ちゃんとしたものではない」、 「全うなものではない」と意味になります。 そんな風に言われないように気をつけないと。

『命と向き合うデザイン』 

 “楽しんで”

楽しまなければいけない。 楽しんでやらないと陸なモノにならない。 でも、 大抵のことは楽しんでばかりはいられない。 それでも、 楽しまなければいけない。 楽しむと言う意味の「楽」は、 快楽の楽であり、 快楽とは元々音を楽しむ、 音楽からきた言葉です。 しかし、 最初は楽しかった音も、 ずっと聞いていると、 段々笑ってばかりもいられなくなる。 思い付いたモノを、 思い込んでいく中で、 段々笑ってばかりもいられなくなる。 それでも、 楽しんでやらなければいけない。 その支えになるのは、 誰かがそれを手にした時、 誰かがそれを使った時、 誰かが・・・た時の、 笑顔を想像することです。 それが思い遣るということです。

『命と向き合うデザイン』 

 “資質とは”

思い付いただけで、 すごく良いモノがつくれる人は、 それで良いのかも知れない。 でも、 思い付いたモノを、 思い込んで、 思い遣って、 それで良いモノにしていけるなら、 それだけ、 思い続けていきたい。 どんな些細なところにも、 きっとそれは現れてくる。 「もういいよ、  これはこんなもんでいいでしょ」って 思ってしまった時に、 もう一歩踏みとどまれるか。 そして、思い続けられるか。 踏みとどまり続けると、 きっと 踏みとどまることが癖になって、 そのうち、 自然に踏みとどまれるようになる。 それはデザイナーにとって、 絶対に必要なことです。 一人称・二人称・三人称。 自分のことは良いとしよう。 でも、 もし二人称・三人称の誰かが関わるモノなら ちゃんと思い続けていきたい。 そして、 そのために大切なことは、 我が儘 になって、 一人称を大切に することです。

『命と向き合うデザイン』 

 私のAと彼のA

言葉は langue によって、 signifiantとsignifiéが結びつけられます。 表しているモノ=signifiant 表されているモノ=signifié では、 スケッチではどうなのでしょうか。 眼の前で見ているモノを描く場合は、 犬でもdogでも、見えているモノは一緒ですので、 描かれるモノも一緒になります。 しかし、 同じ場所にいない人にそれを伝える場合、 つまり、 眼の前で同じモノを見ていない人に、 今見えているモノを伝える場合は、 signifiantとsignifiéのような関係が必要になります。 自分が描いたモノ=Aを、 誰もがAと認識してくれるためには、 Aという共通の情報を持っている必要があります。 当たり前のことですが、 これもまた考えると結構厄介なことです。

『命と向き合うデザイン』 

 "評価"

「評」・「選」は共に、 揃えることを意味します。 「水面に浮かぶ浮き草」なのか、 「台に乗せた人」なのかという違いはありますが。 評価するのも、 選択するのも、 まずは揃えることが必要です。 揃えるためには 個々の形式・内容を、 正確に把握する能力が必要です。 まず、 違う形式のモノ同士を 揃えることはできません。 そして、 内容を理解していなければ、 揃えることはできません。 デザインにおける評価とは、 審査の際に必要になります。 1.良いデザインであるか 2.優れたデザインであるか 3.未来を拓くデザインであるか これらを見定めるためには、 まず必要なことは input です。 知らなければ始まらないからです。 そして、そこに美しさを評価する力が必要です。 小林秀雄 の残した有名な言葉に、 「美しい花がある。花の美しさはない。」 というものがあります。 この言葉の意味するところに 辿り着かなければいけないのです。

『命と向き合うデザイン』 

 "ごっこ遊び"

◯◯ごっこ遊び、というものがあります。 幼い頃、 誰もがやったことがあるのでは ないでしょうか。 模倣して遊ぶこと と言ってしまったらそれまでですが、 子供たちが興味を持った対象を、 子供たちが視覚的・聴覚的、 その他の感覚で捉えたものを、 時に小道具などを使いながら 独自の方法で表現する遊びです。 例えば、 子供が大人のふりをしたりするのですから、 視覚的に捉えたこと、といっても、 見た目はあくまでも子供のままです。 にも関わらず、遊んでいる同士はそこに、 例えばお父さんだったり おまわりさんだったりという役を 重ね合わせます。 それはつまり、 子供たちの中に、 ある決まり事、があって、 それを暗黙の内に全員が守っていることになります。 それって、つまりはprotocol? 今日、電車に乗っている時に、 お母さんとお子さん、に見える2人組が、 仲良くごっこ遊びをしてました。 それを見て、 そこにある「想像力」と「創造力」に ちょっと感動したのでした。

『命と向き合うデザイン』 

 flyleaf

langue という、 「社会的な記号の体系・規約」によって、 各言語体系はそれぞれの言語体系内で、 表現するモノと表現されるモノを 一致させることができます。 このlangueとは、 現代で言うところの、 protocolになると考えられます。 一般的なprotocolの意味は、 実験の計画案や、原本・通信規約、 などなど。 protocolの語源は、 first pageから、 “flyleaf”という言葉とのこと。 意味は見返しの遊び。 つまり、 書籍などの巻頭や巻末にある、 白い紙のことです。 ・・・なんかちょっと不思議ですね。 「何も書いていないページ」、 という意味の言葉が、 通信などの規約として使われている、 って、 禅問答 のようです・・・。

『命と向き合うデザイン』 

 "言語道断"

禅問答 とは、 「禅家で、修行者が疑問を問い、  師家がこれに答えるもの。  転じて、ちぐはぐで分かりにくい問答。」 とのことです。 師から修行者への答えが ちぐはぐで良いのか?という疑問は残りますが、 一般的に、 言葉でのやり取りでは、 こういった現象が起こります。 そんな現象を打ち破る言葉が、 道元の教え にはあります。 言語道断 言語道断とは、 「言葉で表現する道が断たれる。  言葉ではとても表現できない世界観」とのこと。 転じて、 デザインにおいては 「「ことば」にならないから「かたち」にする」 と表現されます。 デザインは「かたち」をつくることで 問題解決 をします。 形而上者謂之道、形而下者謂之器 形而上的なものが捉えにくいのは、 形になる前だからです。 しかし、 それは必要なモノです。 器・外見となって現れるのは、 道・内面だからです。 その境目にあるのが概念としての形です。

『命と向き合うデザイン』 

 "ORIGINへ"

形而上 学は、 後世になって、 アリストテレスの残した書物が整理され、 名前を与えられました。 τὰ μετὰ τὰ φυσικά 「自然について書かれた本の『後の』本」、 という意味らしいのですが、 たまたま、 並びの順でそう呼ばれていたものが、 実際の内容も「自然の『後ろ』」、 つまり、 あらゆるモノの存在そのものを 言及している内容だったため、 そのまま名前が定着したとのこと。 この言葉、英語では、 metaphysicsという単語になります。 METAPHYSICS mete + physics = the things after the Physics physics -> physic -> physis -> nature -> natura -> natal -> natalis natalis(L) = birthday(E) birth -> bear -> origin ORIGIN ということで、 metaphysicsとは、 「あらゆるモノの始まり(origin)」の、 そのウラ(meta)、を意味しています。 こうなってくると、 所謂、鶏と卵、 禅問答のようなものになってしまいます。

『命と向き合うデザイン』 

 "形而上と形而下"

道元の教え、 「内面は外見に現れる」 というものは、 形而上 的な考え方です。 「易経」・「周易繋辞上伝」の中に記された、 以下の言葉より、取られたのが始まりです。 形而上者謂之道、形而下者謂之器 形よりして上なる者、之を道と謂い、 形よりして下なる者、之を器と謂う。 この場合、「上」・「下」は、 「以前」・「以降」と考えるそうです。 つまり、 勝手に解釈すると、 「形になる前のモノは道と呼ばれ  形になった後のモノは器と呼ばれる」と、なります。 そこで道元の教え。 内面(形になる前のモノ)で、 思い描いた道は、 やがて、 外見(形になった後のモノ)、つまり、 器となり、見えるようになる。 この「器」という字は、 『漢字源』(学習研究社/藤堂明保)によると、 「「口四つ+犬」で、様々な容器を示す。  犬は種類の多いモノの代表として加えた。」、 とのことなので、 所謂「器が大きい・小さい。」とは異なりますが、 千差万別ある、様々な見え方をする、 という意味合いになるのでしょうか。

『命と向き合うデザイン』 

 "内面と外見"

道元の教えによれば、 「内面は外見に現れる」、 というものがあるそうです。 つまり、 しっかりとした心構えを持って、 内面を磨けば、 その美しさは外見にも現れてくる、 とのこと。 格好良くなる、 という意味ではありません。 顔付きも、そうと見て取れるようになり、 身なりも美しく変わってくる、 という教えだそうです。 よく、心がちゃんとしていれば、 見た目なんかどうでも良い、 という人がいますが、 そんなことはないそうです。 本当に内面が美しく磨かれている人は、 外見も自然に美しく整うそうです。 正眼の構えを持って生きている人は、 きっと、 外から見ても、 そうとわかるようになるのでしょう。

『命と向き合うデザイン』 

 普遍性

言語では、 langueという社会的な体系によって、 signifiéがsignifiantに依存せずに 意味を持つことができました。 しかし、これは、言い換えれば、 言語では、langueがなければ、 何が表されているのかがわからない、 と言えます。 ここでスケッチを考えてみます。 「dog」も「犬」も同じ対象を見て描けば、 同じモノが描かれます。 (上手い下手の違いはあれども) どんなものでもこの現象は共通です。 「描く」という行為によって、 表しているモノ=signifiantと 表されているモノ=signifiéの間には、 完全なつながりが存在します。 このように表現すると、 つまり、 「スケッチと言葉は違うものだ」と、 結論が出てしまうかに見えますが、 実はそんなことはないのです。 スケッチと言葉の関係

『命と向き合うデザイン』 

 恣意性

signifiéはsignifiantに依存しません。 そのため、 「dog」と呼ぼうが「犬」と呼ぼうが、 同じものを指し示すことができます。 これがSaussureによって考えられた langueという概念です。 「社会的な記号の体系・規約」という意味であり、 言語の社会的側面を持つものと言えます。 各言語によって特定であり、 用いる人が変わっても意味は異なりません。 一方、 langueと対照的に考えられたのが、 paroleという概念です。 「意志と知能の個人的行為」と言われています。 用いる人によって意味が異なるものです。 つまり、 langueという体系化された決まり事を、 各言語単位が持つことで、 更に、 その決まり事が言語圏毎に周知になることで、 signifiéがsignifiantに依存せずに 存在できることになります。 dogでも犬でも同じ意味を持ちます。 これをスケッチで考えてみるとどうなるでしょう。

『命と向き合うデザイン』 

 読む、ということ

哲学者が書いた本を読むことの難しさから、 考えを伝える言葉の有り様を考えました。 そもそも、 書籍を読むということはどういうことなのでしょう。 「読むということは、どういうことかも何も、  読むってことだろう」と言われそうですが。 文字を読むということは、つまり、 文字が「表しているモノ」を知覚するだけでなく、 文字によって「表されているモノ」を、 認識・理解することになります。 書籍を読むことの目的は、 表されているモノを認識・理解することです。 そのための手段として、 表しているモノを知覚=読む必要があります。 表しているモノとは、 「文字」や「音」のことであり、 表されているモノとは、 「意味」や「イメージ」のことです。 表しているモノ=signifiant 表されているモノ=signifié signifiant - signifié Ferdinand de Saussureが 最初に体系化しました。 signifiantは例えば、 日本語や英語のように、 所謂、言語圏によって異なります。 一方、 signifiéはsignifiantに依存せず存在します。 日本語で「犬」と言われているモノも、 英語圏では「dog」と言われているように。 これは、 ちょっとすごいことなんです。

『命と向き合うデザイン』 

 モノとカメラの相対論

光を動かす モノを動かす カメラを動かす 色々な撮り方を目の当たりにした 光が絡むことから、 プロダクトと写真の「相対論」として、 実現可能と言えるのでしょうか? 観察者を納得させるための、 説得性を持った、 直喩・対比・類似・類比・隠喩が必要です。 プロダクトから湧き上がるイメージを、 どのように具現化し、 フィルムにおさめるのか。 その一般性と特殊性は まさにデザインです。

『命と向き合うデザイン』 

 哲学の本は難

私は、 哲学者が書いた本や書き残した本を、 小説を読むときのような速度で読むことはできません。 (原文が英語は頑張ってみることもありますが、  原文がフランス語のものは  基本的に日本語訳されたモノが対象です) 単語や文節が 頭の中で跳ね返っているような感覚になりながら、 兎に角、読み進める、という感じです。 世の中には、 「60分でわかる○○!」とか、 「××が簡単にわかる本」などが、 数多く出版されています。 これらの本も読んではみますが、 如何せん、 頭に残るのは、オリジナルの書籍の内容です。 ややこしく、 それこそ「簡単に」理解できたり、 「60分で」わかったりはしないのですが、 何故かオリジナルの方が頭に残ります。 脳みそが 「理解しよう!理解しよう!」と頑張った成果、 なのでしょうか。 それもあるのかも知れませんが、 もう一つ考えられるのは、 それぞれの哲学者が、 自らの思想を確実に伝えられる言葉を厳選し、 それに意味を載せた結果が、 書き言葉として、 オリジナルの書籍に記載されているから なのではないかと考えます。 話し言葉 話し言葉では、 non verbal communicationの要素が加わるため、 同じ「言葉」であっても、 使う人や時間、その他様々な要因によって 相手に伝達される「意味」が変化します。 書き言葉 一方、 書き言葉は、 各言語に即した文法範疇によって規定されるため、 「伝達される内容」は 使う人や時間といった要因では変化しないはずです。 更に、 言葉は「ある物事」を表そうとする時、 いくつかの表現を用いることができますが、 伝達される内容=「ある物事」が より物事の根源的な部分に触れるような場合は、 用いられる言葉が画一的なものになり、 表現が限定されると考えられます。 しかし、ここで問題(?)が。 例えばソクラテス、 例えばソシュール。 彼らの思想を記した代表的な書籍は、 その多くが本人ではなく、 弟子が話を聞いてまとめたモノです。 例えば対話、 例えば講義、 といった形式で出力されたモノを、 弟子達が書籍として入力したモノが、 現在は読まれていることになります。 とはいえ、

『命と向き合うデザイン』 

 変と不変

「スケッチ」と「言葉」の関係 を 書くつもりでしたが、 改めて、 もう少し調べてみたくなったため、 ちょっと置きます。 「ちょっと置きたくなった」理由を 考えてみます。 以前読んだ本を 数年経ってから読み直してみると、 「あれ?こんな意味・内容だっけ?」と 思うことがあります。 書籍やそこに書かれている文字は、 時間の経過とともに古くなります。 ただ、余程の時間が経たない限り、 読み取れる文字の形は変わりません。 一方、 読み手である「自分」も、 時間の経過とともに年を取ります。 ある程度の年齢になってからであれば、 文字を読み取る能力は変わりません。 しかし、 読み取った文字から抽出される意味・内容に 変化が生じていることになります。 多かれ少なかれ、 誰もが経験することですし、 ある意味、「当たり前のこと」と 言われてしまうことですが、 よく考えてみると、 不思議なことであり、 且つ、 人との「対話」や「コミュニケーション」が有する 問題点や難しさを考えるための 鍵が隠されています。 一人の人間の中でも、 時間によって言葉から得る内容が 異なるわけですから、 それが他人同士では、 尚更、異なる可能性が高くなります。 それでも人間は、 言語によるコミュニケーションが成立すると信じ、 多くの場合、それを実現しています。 自分の中でも異なることがあるくせに。 これは言語が有する、 抽象 性と曖昧性による効果です。 このことを考えるために、 ちょっと置くことにしました。

『命と向き合うデザイン』 

 “三つを繋ぐP”

「P」 とは、 “LETTERS LATINES”によれば、 “PAROLE”、“THRRE”、“PAIX”、 「言葉」、「大地」、「平和」を、 表すと言われています。 起源や歴史から見てみると、 ヒエログリフの「口」を表す言葉とは、 なんの関係もないとのことですが、 多くの文献で、 「口」との関係が裏付けているとのこと。 この「P」、 スケッチ の中で話した「言葉」に つながっていきます。 一つ目の意味、 “PAROLE”は、 「言葉」と訳してしまうのは危険な単語です。 この単語には、対になるものとして、 “LANGUE”があります。 こちらも、 敢えて平易な訳に行うならば、 「言語」となるのでしょうか。 スケッチとの関係を見ていきます。 LANGUE - PAROLE

『命と向き合うデザイン』 

 “次元を超えて”

プロダクトの美しい写真を見ると、 美しい写真を撮れるようになりたいと感じます。 そして、 それ以上に、 美しい写真に見合うだけの、 美しいプロダクトをつくりたいと感じます。 世の中のプラットフォームには、 プロダクトそのものよりも、 写真の方がメディアとして、 活用され易いようです。 例えば、 書籍でも、ウェブでも。 現物は見たことがなくても、 写真では知っている、 というモノが沢山あります。 モノによっては、 実際の「モノ」を見てガッカリ ということも、残念ながらあります。 モノの力が 写真の力に負けてしまった場合です。 逆もあります。 写真で見た時は、 たいしたことはないと思っていたのに、 「モノ」を見て、 初めてその魅力に気づくことがあります。 どちらも望ましい状態とは言えません。 写真でそれを見て、 美しいと感じ、 実際の「モノ」を見たくなり、 現物を見て、 改めてその美しさに見惚れるような、 そんな関係が、 プロダクトと写真には必要なのだと感じます。 その相乗効果によって、 そのプロダクトと写真は、 残っていくのではないでしょうか。 二つのPの密なる関係

『命と向き合うデザイン』 

 スケッチ

スケッチ を考えてみます。 いつものように語源を辿る前に、 まずは、「スケッチ」という行為を考えてみます。 ・見えているモノを描く ・見えていないモノを描く 大きく二つありますが、 デザインで言われるスケッチは、 主に二つ目の、 「見えていないモノを描く」ことです。 鉛筆・ボールペン・サインペン・色鉛筆・万年筆・・・ などを使って、 スケッチブック・クロッキー帳・メモ帳・手帖・・・ などに、どんどん描いていきます。 描く 「描く」ことができれば、 何を使ってでもできます。 「描く」とは、 形を表したり、表現したりすることです。 見えていないモノを描く行為として、 言葉と比較して考えてみます。 言葉もスケッチと同様に、 「見えていないモノ」を、 音として表現するツールです。

『命と向き合うデザイン』 

 全体価値

大抵の人は、 与えられたモノに対して、 最初は満足しても、 だんだん慣れて来ると、飽きてしまいます。 または、 慣れて来ると、使い方が変わります。 手間をかけなくても良くなります。 むしろ、 できるだけ手間をかけたくないと 考えるようになります。 システムはその現象に対して、 バージョンアップという方法で、 満足度の取り戻しを計ったりします。 しかし、 元来、ウォンツを満たしている商品は、 満足感を与え続けることが できるのではないかと考えます。 それは、 所有される機能によるものです。 所有される機能が、 使用される機能を含むと 考えるならば、 それは勿論、付加価値などではなく、 全体価値でしかありえません。 contextとcontentsの関係で 考えるならば、 contextがなければ、 contentsは自分が居るべき場所を 確保することができません。 つまり、 使用される機能が存在するためには、 所有される機能は必然なのです。 デザインは全体価値です。 所有される機能がなく、 使用される機能だけが存在するところに、 デザインはありません。

『命と向き合うデザイン』 

 二つの機能

物が持つと言われる、 二つの機能。 使用される機能 所有される機能 使用される機能は劣化しますが、 所有される機能は洗練される時すらあります。 所有される機能=形式 使用される機能=内容 と考えられるならば、 使用される機能 ∈ 所有される機能 と言えるのでしょうか。 例えば、 使えなくなっても 捨てずにきちんと保管されたり、 名残惜しまれたりするのは、 形式が満たされているからだと、 考えられます。 もし、使用される機能が 満たされている二つの製品がある場合、 購買のキーになるのは所有される機能です。 また、 製品によっては、 所有される機能が、 使用される機能を上回ることもあります。 逆に、 所有される機能が満足いくのものでなければ、 たとえ、優れた使用される機能を持っていても、 購入されないこともあります。 つまり、 プロのデザイナーがつくる製品は、 常に、所有される機能を 満たしているモノでなければならず、 デザイナーが エキスパート ならば、 必然的にそうなるはずです。

『命と向き合うデザイン』 

 収集

繰り返しになりますが、 「つかい手はウォンツがわかりません。  そのため、  ウォンツをつかい手から聞き出すことはできません。」 何かを欲しい、と感じるときは、 多かれ少なかれ誰でもあることだと思います。 では、 「一番欲しいモノは何か」と問われると、 ちょっと話は変わってきます。 「お金」とか、 「いのち」とか、 「友情」とかなんとか。 でももっと具体的に欲しい「モノ」は何か、 と問われると悩むのだと思います。 更に、 「今、実際にないものでもかまいません」、 などと言われたら、 喜ぶ反面「一番」を決める難しさが出てきます。 Jean Baudrillardの Le Système des objetsによれば、 物は、 「機能から分離され、  主体に対して相対的になった物が  所有される」という。 また、 「すべての物は  用いられることと所有されることという  二つの機能がある。」とのこと。 収集という行為において、所有とは、 何にも勝る情熱的な行為になるようです。 ここでいう収集家とは、 「シリーズで欠けている物を  補って行くために物を愛する者」のことです。 これはつまり、 自分が持っていない物は何か、 ということを追い求める行為です。 ウォンツを理解するためには、 まずは、対象が「持っている物」は何か、を、 理解する必要があります。 持っていないモノを知る

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 美度

ちょっと寄り道です。 色彩調和の美しさの度合いを「美度」として、 計算によって求めようとした分野があります。 M=O/C M:美度 O:秩序=色相の組数×色相の美的係数      +明度の組数×明度の美的係数      +彩度の組数×彩度の美的係数 C:複雑さ=色数      +色相差のある色の対の数      +明度差のある色の対の数      +彩度差のある色の対の数 P.Moon & D.E.Spencerによって、 構築された色彩調和論の中に出てくる理論です。 これは、元々、G.T.Fechnerが唱えた、 「美は複雑さの中の秩序にある」という 言葉に由来します。 これを基に、 G.D.Birkhoff(数学者)が公式を考え、 色彩調和に当て嵌めたものが上の式です。 Gustav Theodor Fechnerは ドイツの物理学者・心理学者・哲学者です。 精神物理学を創始し、 「感覚の大きさは  刺激の強さの対数に比例する」という、 ウエーバー・フェヒナー則を唱えることで、 物理量と感覚量についての法則を 確立しました。 一方の、G.D.Birkhoffは、 「ポアンカレの微分方程式・  天体力学における業績を  継承・発展させ、力学系の理論として  体系化した」と、辞書にありますが、 晩年のAesthetic Measureにおいて、 美学と数学の理論的な関係性を説いています。 しかし、 矛盾を含む箇所があることから、 実用的な面において疑問視されています。 美学と数学の関係は、 黄金比などにも見られるように、 絶えず掲げられて来たテーマです。 しかし、 未だにクリティカルな解答には至っていません。 それらに向かう 「デザイン数理学」が確立する時、 それは、非常に価値あるものになります。

『命と向き合うデザイン』 

 要素と要因

content:自分自身で満たされている、を、 「内容=要素・要因=content」から、 逆引き的に「content=要素・要因」として、 考えてみます。 要素:静的:不変 要因:動的:可変 contentは 常にこの二つを含んだものです。 例えば、 「ペン」を考えてみると、 「要素=書けること」 「要因=インク・色・・・」 「イス」を考えてみると 「要素=座れること」 「要因=高さ・堅さ・・・」 などなど考えてみると、 何が何だか見えてきそうです。 これをcontextとくっつけて、 modelに向かいます。