『命と向き合うデザイン』 

 “ある展示より・1”


普段は見えないはずのモノが見えている状況は、
不安を呼び起こします。
最も端的な例としては、
「人体の内部」=「体内」。
体の中は、普段見えてはいけない部分です。
それが見えていれば不安になります。
「怪我」や「死」というものが連想されるからです。

しかし、
芸術家の主観によって、
「表現したかったもの」であるならば、
それはArtにはなり得るのでしょう。

DesignとArtの差異が見えてきます。
Designは客観であり、
Artは主観です。
人を不安にさせることを「目的」としたDesignは
存在を成立し、得ません。
ただし、ある「目的」のために、
「手段」として不安にさせることは、
有り得ることです。

しかし、これは、問題が複雑に絡み合っています。

例えば、
体内を詳細に描き出した絵があるとして、
元々は芸術家が主観によって
「まだ誰も描いていなかったから描きたかった」、
「ただ、描きたいから描いたものだった」としても、
それが学術的価値を持つことは有り得ます。
医学の領域で有効に活用されたとするならば、
客観的価値を与えられたものとして、
Artの枠を越えていくと考えられます。

また、例えば、
上の例で挙げたような、
「体内が見えていることは不安に与える」という考えは、
「怪我」や「死」を穢れと捉えている、
言ってみれば日本という国の、
「ハレとケ」の文化を前提にした話です。
「葬」を忌み事としない文化においては、
それは不安には至りません。
そもそもハレとケの文化がある日本においても、
葬はまだその位置付けが曖昧なものです。

これらは、
命と向き合うデザインを考えていく上で、
大変核になるテーマです。

高齢のために、
口腔からの栄養摂取が難しくなった患者には、
腹部からチューブを挿入し、
純粋な栄養素を供給することになります。
体表に腔を設け、管を通すことは、
上述の内容と同様に、
見ているものに不安を与えることになるでしょう。
しかし、
その管は患者の生命を繋ぎ止めるためには、
非常に大切なモノであり、
デザインされるべきものです。

医療機器をデザインする場合、
特に、治療を行うための機器においては、
常にこのことを考えさせられます。
そして、
この想像力が欠如している場合、
機器としての現実感が喪失します。

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