『命と向き合うデザイン』
哲学の本は難
私は、
哲学者が書いた本や書き残した本を、
小説を読むときのような速度で読むことはできません。
(原文が英語は頑張ってみることもありますが、
原文がフランス語のものは
基本的に日本語訳されたモノが対象です)
単語や文節が
頭の中で跳ね返っているような感覚になりながら、
兎に角、読み進める、という感じです。
世の中には、
「60分でわかる○○!」とか、
「××が簡単にわかる本」などが、
数多く出版されています。
これらの本も読んではみますが、
如何せん、
頭に残るのは、オリジナルの書籍の内容です。
ややこしく、
それこそ「簡単に」理解できたり、
「60分で」わかったりはしないのですが、
何故かオリジナルの方が頭に残ります。
脳みそが
「理解しよう!理解しよう!」と頑張った成果、
なのでしょうか。
それもあるのかも知れませんが、
もう一つ考えられるのは、
それぞれの哲学者が、
自らの思想を確実に伝えられる言葉を厳選し、
それに意味を載せた結果が、
書き言葉として、
オリジナルの書籍に記載されているから
なのではないかと考えます。
話し言葉
話し言葉では、
non verbal communicationの要素が加わるため、
同じ「言葉」であっても、
使う人や時間、その他様々な要因によって
相手に伝達される「意味」が変化します。
書き言葉
一方、
書き言葉は、
各言語に即した文法範疇によって規定されるため、
「伝達される内容」は
使う人や時間といった要因では変化しないはずです。
更に、
言葉は「ある物事」を表そうとする時、
いくつかの表現を用いることができますが、
伝達される内容=「ある物事」が
より物事の根源的な部分に触れるような場合は、
用いられる言葉が画一的なものになり、
表現が限定されると考えられます。
しかし、ここで問題(?)が。
例えばソクラテス、
例えばソシュール。
彼らの思想を記した代表的な書籍は、
その多くが本人ではなく、
弟子が話を聞いてまとめたモノです。
例えば対話、
例えば講義、
といった形式で出力されたモノを、
弟子達が書籍として入力したモノが、
現在は読まれていることになります。
とはいえ、
何れにしても、
今、私が読める書籍は、
本人、またはその弟子が、
書き残したモノには変わりがないため、
「伝達される内容」は変化しないと
考えられます。
・・・あれ?
ここから、
言葉とスケッチの関係性が
考えられるような気がしてきました。