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5月, 2020の投稿を表示しています

緩く縛って

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駅近にあるショッピングモールの、 上の階からの一枚。 休日に行った時に撮ったものですが、 「密」、、、なのかな? と思わせてくれる一枚でした。 政令指定都市ではあるのですが、 あまり、そうも感じられないような、 そんな人の動きです。 この写真も、特に空いている時を狙ったわけではなく、 なんとなく、おおよそ、いつもこんな感じです。 構えすぎず、長期的な視点で、ゆっくりと、 そんな感じにやっていければ、続くのかもしれません。

二つの距離

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3密という言葉は、流行語になりそうな勢いで使われています。 これからしばらくの間、もしかしたらずっとこの先かもしれませんが、 人との距離はその関係性を示す重要な役割を果たすようになります。 もちろん今までもそういった傾向はありました。 二人の人が、肩が触れ合うような距離で歩いていれば、 近いのは物理的な距離だけではないことを示していました。 しかし、これからは、そんな距離でいる、ということは違う意味を持ちます。 普段から常にそういう距離でいる人たちであることを、 他者に対して示すことになるからです。 人同士の精神的な距離を縮めることと、 物理的な距離は密接に関係していると考えています。 つまり、友人のつくり方、そういったものも変わっていきます。

こんな気分で

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こんな気分、という一枚です。 桜はたくさん咲いていますが、 フォーカスが当たっているのは手前のまだ咲く前の蕾。 世の中、なんとなくこんな感じですね。 思いっきり楽しみたいところですが、 もう少し待っても、きっと楽しいことはあるから、 もう少しだけ、我慢を。

影に光を

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以前、 iPhoneで撮影したところと、 同じところのフィルムが上がってきました。 最近のSNSでよく見かけるフィルム写真は、 全体的に明るい印象があります。 光をしっかりと取り込んでキラキラとした世界が写っています。 しかし、なぜでしょう。 私はやはり、こういう影に沈んだ部分に光を感じます。 世の中ではうけないだろうなぁ、と考えながら、 それでも自分の好きなもの、に価値を見出そうとしています。

主観と客観

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昨年末にライトアップされていたところで撮った一枚です。 ぼかして撮ったのか、 ぼけて写ったのか。 確か前者だった気がするのですが、 何れにしても好きな色味のバランスです。 今日、ちょっと急遽今までの写真を見直すことがあり、 ザーッと見てみて感じたことは、 カラーの写真について言えば、 色に強く左右されるようです。 昨年8月頃からだいぶ撮ってきたことで、 少し自分のことを客観視できる状態に近づいてきていると感じます。 主観と客観、その間を埋めていきます。

土地から学ぶこと

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これまで色々な場所に住んできましたが、 その度に、その場所その場所特有の文化があることを感じます。 当たり前のことであり、 それを一朝一夕で知ることなどできはしないのですが、 それでも様々な事柄に触れる機会をいただくことで、 多くのことを学ばせてもらっていると感じます。 勉強を積み重ねていく日々です。

過去から現在、未来へ

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緊急事態宣言が全国で解除されました。 新型コロナウイルスは、発症まで2週間ということです。 今日の自分の在り方は、2週間前に決定されるということであり、 今とっている行動の結果が2週間後に出てくるということです。 怖い、とも言えるかもしれませんが、 考えてみると、これはある意味、当たり前のこととも言えます。 今の自分は、常に過去からの自分の連続であり、 それは未来に対しても言えます。 20代の頃、 男性の行動は10年後に顔として現れる、 という話を聞いたことがありました。 考えなければいけません。

適度な高さのバー

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たまたま自転車で立ち寄った公園に、 懸垂ができるバーがありました。 なぜか小さい頃から、筋トレとして一番やってきたのが懸垂でした。 ただ、引越しをするたびに、 なかなか適切な場所を見つけることが難しく、 岡山ではこれまで見つけることができませんでした。 そんな中、幸いにもたまたま立ち寄った場所で、 運良く見つけることができました。 木立の中に唐突に現れたバーは、 なぜここに?と疑問を投げかけたくなるような佇まいでいました。 時間のある時に立ち寄りたいと思います。

シーンの変化

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以前、Tully's coffeeに行った時に撮った一枚です。 当時は何の疑問もいだかなかったシーンですが、 今の情勢で考えてみると色々と問題があります。 お客さんの距離が近い、 レジとお客さんの間に仕切りのようなものがない、などなど。 多分、透明な仕切りなどについては、 あっても問題はないので、これからも常態化していくものと思われます。 静かにですが、確実にシーンが変わっていきます。

2年

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昨年に続き 、今年も共に迎えることができました。 少しずつ変わりながら、 少しずつ揃いながら、 成長していければ良いな、と感じることができています。 感謝を忘れずに生きていきます。

モノクロに色を考える

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不思議なことに、 モノクロフィルムで写真を撮るようになって、 これは何色だろう、と考えることが多くなったように感じます。 夜、暗くなりかけた頃に、 サウナ屋さんのネオンを撮影した一枚です。 夜の空は黒なのか? ネオンがついていない菅は黒なのか? それぞれ、何色で光っているのか? そんなことを考えながら撮った一枚でした。

二つの目を

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以前、スマートフォンでも撮ったユキヤナギです。 祖父のKonica FMで隙間から撮ってみましたが、 程よいボケが手前と奥にできています。 今のスマートフォンは、 擬似的なボケを綺麗に付けてくれるものがあります。 現状で少し不自然に見える部分も、 やがてもっと自然に見えるようになるのでしょう。 ただ、今の自分の気持ちとしては、 その便利な部分も楽しみつつ、 昔からある、自然な雰囲気も楽しめる目を持ちたい、と感じています。

好きなものを考える機会

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以前行った橋の下からの写真です。 何が良いのか、自分でも甚だ疑問ですが、 どうもこういうものが好きなのようです。 写真を撮るようになって、 自分が何が好きなのか、 対象が好きなのか、 写真に収まる絵として好きなのか、 撮り方が好きなのか、 色々と考えさせられます。 価値観にもつながります。

早咲きの桜

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春先にちょっと早いお花見に行った時に撮った一枚です。 まだ早いかな、という時期だったのですが、 結果的にこれ以降行けなくなってしまったので、 行っておいて良かったということになってしまいました。 まだほとんど咲いていない中、 一つだけ咲いている桜を見つけ、 おさめることができました。 今年の桜は人目に触れず、 咲いて散っていったものが多かったことを考えると、 なんとも勿体ない想いに駆られます。

覆うモノ

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カフェでお茶をしたときの一枚です。 朝から天気が悪く、 客足も鈍っていたようで、 他のお客さんは1組だけでした。 誰もいないように見える店内から、 人通りがある外が見える。 自分を覆うモノが何であるか。 考えさせられると感じました。

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神戸の中華街に行った時の一枚です。 今の時代では完全に「密」と言われてしまう状態です。 活気があって、明るくて、 ワイワイガヤガヤやっているこの雰囲気が、 今は得難いものになっています。 それも突然の事態です。 いつ収束するのか、 本当に収束するのか、誰にもわからない状態が続いています。 その中に何を考えるべきか、それが問われています。

飛び幅

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以前、東京の恵比寿駅付近でやっていた、 バカラのシャンデリアの展示 。 その足元に、ガラスでできた招き猫がありました。 こういう感覚は面白いなと感じます。 ノベルティなどもそうですが、 飛び幅というのか、 落とし所というのか、 そういう発想に自由になりたいです。

1,700枚

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以前、 スマートフォンでも同じアングルで撮影 したショットです。 最近の携帯電話のカメラは、 本当に高性能で、画角も広くなっています。 一方、この写真は52mmのレンズで撮影。 所謂標準レンズと言われている画角になりますが、 フィルムで撮るようになってから、 このサイズ感が好きになりました。 けられる領域があるからこそ、 見せたいところが明確になるように感じます。 昨日、たまたま昨年から今まで、 フィルムで撮るようになってからの枚数を簡単に計算してみたところ、 1,700枚ほど撮っているようでした。 塵も積もれば、ではありませんが、 こんなに続くとは、正直思いませんでした。 自分が表現したい、と感じるものが撮れるようになるまで、 頑張ってみます。

静かな時間の中で

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もう、数ヶ月前ですが、 大きな橋の下を車で通りかかった時の一枚です。 海釣りを楽しんでいる人たちを見かけました。 一人は座って、 もう一人は立って、 それぞれ楽しんでいるようでした。 来慣れた場所なのか、 少しずつ暗くなっていく時間の中、 淡々と釣りをしている姿をシャッターに収めました。

加工されたように

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不思議なピントになった写真です。 書店に向かって構え、 手前のお花にピントを合わせたものでしたが、 花の輪郭がボヤッと浮かび上がるようになりました。 これはレンズの異常なのか、 目でピントを追えていないのか、 他の要因なのか、 そんなことを考えながら、 Photoshopでこんな風に加工するなら、 どういう手順でやるだろう、などと考えていました。

ピントに意思を込める

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シャンデリアを下方から撮影したものです。 私の目が良かったら、 もう少しピントが合うのかもしれない、 と考えるとやはり視力矯正を考えた方が良いのか、と感じたりもします。 幸い裸眼で生活できてはいるのですが、 もっともっと、と求めればきりがないのかもしれません。 今使っているKonica FMは、 ピントを合わせるという行為もまた、 とてもアナログで、完全に人間任せなものです。 つまり、人間の意思を介在させることができる、と考えると、 大変面白く興味深くも聞こえます。

偶然に感じ入る

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なぜその写真が気になるのか、 気にいっているのか、 自分でもよくわからないことがあります。 岡山駅付近を歩いている時にたまたま見つけた、 昔の水道の跡だったと思います。 夕暮れ近くなっており、 暗い中でどのくらい写るだろうかと思いながら、 シャッターを切ったことを覚えています。 どうやればこういう質感で写るのか、 どうやればこういうボケとピントのバランスになるのか、 偶然でやっていてはいけないのですが、 それでもこういうものが撮れる楽しさを感じています。

琴線の変化

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今日のお昼は、 久しぶりにケンタッキーフライドチキンを買ってきました。 テレビのCMでやっていたのを見て、というのが正直な気持ちですが、 そのCMでは、さらに、映画を見ながら、というようだったので、 同じように撮りためていた映画の中から一本、 「崖の上のポニョ」を見てみました。 一回は映画館で見ているので、 今回は2回目だったのですが、 途中の部分から、どうにも目頭が熱くなるシーンが多く、 このアニメーションでなぜ??と自分の感覚が不思議になりました。 何か、その中で描かれている、 人同士のつながりや、 相手を思い遣る気持ち、 信じる心、 そういったものが極々自然に描かれていることが、 私の心の琴線に触れたようでした。 たまたま選んだ一本だったのですが、 思いがけず、自分の心の変化に気づくきっかけをもらったように感じます。

表現としての写真

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春先、まだ肌寒い季節でしたが、 公園では多くの家族連れが遊んでいました。 そのうちの一家族、親子で向こうの方に走っていきました。 今はこんな風景もなかなか見られなくなりました。 記録としての写真ではなく、 表現としての写真を意識するようになり、 自分にとって写真は何なのか、 考えながら撮っています。

動くものを、動くように

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今年はホトトギスの鳴き声をたくさん聞いたように思います。 望遠レンズがあれば、遠くのものを撮影することができます。 しかし、だからと言って、良い写真が撮れるかと言えば、 それはそれ、これはこれ。 特に、生きているものが相手となると大変難しくなります。 ちょうどど真ん中に収まる形になってしまい、 残念な写真ではありますが、 探して、狙って、ようやく収めることができました。 動くものが動いているように撮れるように、 なってみたいものです。

二値で描く

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自宅にいる間に色々なことをやる、 という話がありますが、 私の場合は今までと同じことを継続してやる、 ということに力を入れています。 その一つとして描き続ける、ということがありますが、 大学とは違って限られたスペースをいかに効率よく使うか、 限られた道具をいかに効率よく使うか、 そこに焦点を絞ったところ、 可能な限り少ない色数で描く、ということをやってみようと考えました。 今の写真に見えるように、モノクロに近い状態、 それも二値に近い状態で描く、ということに取り組んでみます。

引きこっている端午の節句

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端午の節句でした。 ゴールデンウィークとはいえ、 もちろん今年はどこかに行けるわけでもなく、 家でおとなしく過ごしているわけですが、 それでも折々のイベントはやっておきたい、食べておきたい、 そう考えています。 美味しい柏餅を食べつつ、 情勢がどうなっているのか、 自分自身、何ができるのか、 そんなことを考えています。

田舎の夜

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年末年始のお休みの時に、 岡山に帰ってきた時の街の様子です。 夜遅くに飛行機で着いた、ということもありますが、 それにしても車通りも人通りもなかった印象があります。 丁度今、日本中がこんな感じです。 コロナ禍と表現するそうですが、 とはいえ、田舎の夜の街、という感じです。 大阪から福井に引っ越した当初、 夜の静けさと、暗さに驚いたことを思い出しました。 出身の山形を考えれば驚くようなことではないはずですが、 いつの間にか都会の感覚になっていたようです。 今、住んでいる岡山は、 丁度都会と田舎の両方を楽しめる場所、 そう考えると、このタイミングでここに来られたことは幸いでした。

偶然を待つ

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以前、たまたま見かけた橋の力強さに何枚か写真を撮りました。 丁度鳥が飛んできたので、うまくおさまればラッキー、 くらいの気持ちでシャッターを切ったのですが、 それがうまくいったようです。 もしも仕事と考えた場合、 もちろんラッキーではダメなのですが、 その時、 たまたま鳥が飛んでいて、 たまたまシャッタースピードや絞りの設定がうまくいっていて、 たまたま良いアングルの場所にいて。 写真家の人の言葉で、 良い写真を撮るためには待つことが重要というものがありましたが、 確かにそうなのかもしれません。 「来い、来い、あの辺に飛んで来い」と思いながら、 構えて待っていました。

不便性が生む効果

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現像に出していた写真が帰ってきました。 年末年始の頃から出していなかったわけですが、 今見てみると、あぁ、こんなことがあったな、 と懐かしく感じます。 撮った直後に見ることができないという不便性が、 思い出させる、という効果を生みます。 良い悪い、ということではなく、 それぞれが持つ効果を理解し、 使うことが大切だと感じます。

年末年始の現像から

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現時点で現像している最後の写真がこれです。 年末年始から、すでに数ヶ月経っていますが、 現像していなかったのかぁ、と驚いています。 今回は10本ほど現像しましたので、 月に返金して2〜3本ほど撮っているようです。 昨年秋口から始まったフィルムカメラによる撮影ですが、 無理なくもう少し続きそうです。

「来」という字に対して

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まだ大学に通っていた頃、 たまたま通勤路に綺麗な桜並木を見つけ、 ドローンを飛ばして撮影した映像からの切り出しです。 まさか、この映像が今年の最後の桜の写真になるとは思いませんでした。 次もある、と思いながら行動してはいけない、と 今回も考えさせられました。 明日が来る、 来季がある、 来年は、 そんな言葉には意味がなく、 多くの場合は、違った形になることを、 常に考えなければいけません。 自分が罹る可能性がある、 その覚悟を持って、日々過ごすこと。 それしかありません。