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『自分と向き合うデザイン』

 学生達の居場所 前編

私が学部の3年生だった頃、 大学の中の居場所と言えば"製図室"でした。 私は諸処の事情から 先生の研究室にさせてもらうこともありましたし、 やがて、専門が明確になってからは、 "プロダクトデザイン室"へと移っていきましたが、 3年生の頃、学生同士が話をしたり、課題を進める部屋は、 基本的に製図室と呼ばれてた場所でした。 ドラフターと呼ばれる図面を描くための机、 イス、キャビネットが各自に与えられ、 図面収納用の移動式の大きな共有棚が並んでいました。 一学年が60人という少人数だったから 実現できたことなのかも知れません。 一人一人に与えられた机で、 朝から晩まで作業をしていました。 3年生くらいになると誰がどの時間にいるか、 ということが大体決まってきます。 一息つくタイミングで、 自分のアイディアを誰かと議論したり、 相手の進み具合を見せてもらったり、 というように、 たとえ、個人課題ではあっても、 一人だけでやっている、という意識はありませんでした。 与えられた課題を自分はこう解釈してこう考えている。 私はこう捉えて、こう進めている。 こんなプレゼンテーションはどうだろうか。 これは自分の思い込みかも知れない。 こんなアイディアを思いついたんだけど。 そんな風に、 時に議論を、 多くの場合は雑談とも言われるような話をしながら、 お互いのアイディアに興味を示しつつ、 でも、自分が一番良いはずだ、と心の中で思いながら、 課題に取り組んでいました。 一方で、当然のことながら、 皆とは作業を共に行わず、 下宿先や家、バイト先などで作業をする者もいました。 これらは"製図室"という"場所"があって、 初めて成立したことです。 たいそうな言い方をしましたが、 勿論、"製図室"という物理的な場所情報に 特殊性があるわけではなく、 皆が集まり作業を進め、議論をすることができれば、 どこでも良かったわけです。 その場所<topos>において私たちは、 自己の表現である課題作品をつくっていました。 相互のデザインを眺め、 対話を繰り返すことで、 そこでは共通感覚としての言語的ト

『自分と向き合うデザイン』

 幕引き

大変お世話になった方の幕を引く役の一端を、 担わせていただきました。 大変に寂しい気持ちになることですが、 それでも、 恩を受けた者の役目として、 果たしていかなければいけないことです。 人は一人では生きていけない、 という高尚な意味ではなく、 本当に単純に、 人は様々な人と関わって生きていきます。 教えを受ける、というものから、 ランチをつくってもらう、というものまで、 本当に様々なかたちで、 様々な人たちと。 そして、自分が一番年長にならない限りは、 常に誰かの幕を引く役を担う可能性を持っています。 その時に、喜びの笑顔と喜びの涙の中で 送り・送られる、 そんな素敵な場面をつくっていけるような人間になりたい。

『自分と向き合うデザイン』

 やるべき事

粛々と、今、目の前にあることをやります。 やるべき事は沢山ある。 一つ一つ、ただ粛々と。

『自分と向き合うデザイン』

 人の器

私と入れ替わりで、 学長が替わられました。 入学式の今日、 辞められた学長がお越しになり、 ひょんなことからお食事の席に 同席させていただくことに。 とっても楽しい時間でした。 最大でも7人という同席者。 この時間を満喫するには十分の人数でしょう。 人の大きさ、 それを感じ入りました。 ありがとうございます。 その色々な大きさがある、 それを感じられるだけで、 今の私には大きな意味がある。

『自分と向き合うデザイン』

 不思議なIdentify

先月末、友人の結婚式がありました。 大変素敵なお式で、お招きいただいた私の方が、 温かい気持ちになりました。 式の当日・前日は、大学の時の友人達10人ほどと、 一緒に過ごすことができたのですが、 その時に撮られた写真を最近見てみました。 皆、本当に良い顔で写っており、 ありがたいなぁ、と友人への感謝の気持ちを抱きつつ、 ぽちっ、ぽちっ、とページを捲っていく中で、 何か、今までとは違う感情が心の中で広がっていきました。 これ、自分か? 私って、こんな顔をしていたのか? という、不思議なidentifyが、 自分の中でなされました。 正直、写真は苦手です。 笑えと言われて笑えるか?!といつも思ってしまいます。 しかし、それと同時に、 いつでも自然な笑顔をつくれることも、また、 社会的にとても意味のあることだということは、 わかっているつもりです。 写真を撮られる時に、うまく笑えない、 と、感じているため、ますます、写真が苦手になって。。。 ある種悪循環だとわかっていても、 なかなか克服できるものでもありませんでした。 ただ、今回の写真を見た時に、 何か、心の中の方で素直に、 「あぁ、私はこんな顔をしているんだな、今」、 ということが、スッと落ちた気がしました。 なんでしょう。 気のおけない友人達と一緒の時の顔を、 客観的に見ることができたからでしょうか。 何か、今まで蟠っていたモノが、 少しだけ流れていった気がしました。 以前、identityの話を少し書きましたが、 自分が、自分を、どのように見ているのか、 ということも、とても大切な事です。 それは、社会から自分がどう見えているか、 ということにつながります。 そして、社会に対して、自分をどう見せていくか、 ということにつながります。 いくか、「こう見せたい」と思っても、 そのように他人の目に映るかどうかは別問題です。 気のおけない人たちの中にいる自分。 それはある意味、肩の力の抜けた、 自分の本当の姿なのかな、と感じました。

『自分と向き合うデザイン』

 節電を思う

久しぶりに、夜道が暗いと感じました。 街頭が無く、車が通らないだけなのですが、 本当に暗い。 びっくりするくらい暗い。 世の中って自然だとこんなに暗くなるんだ、と、 改めて認識させてくれるくらい、 本当に真っ暗になるものです。 田舎育ちの私にとって、 夜、暗くなる、という現象は、 極めて自然で、当たり前の事だったはずですが、 名古屋・川崎・大阪と移り住んでいるうちに、 そんな当たり前の事も忘れてしまっていたようです。 人間などの生物には、 体内時計と呼ばれる、時刻を認識する機能があります。 人間の体内時計の一日はおよそ25時間と言われており、 普通に考えれば、 1時間/1日、のペースでずれていってしまいそうです。 でも、実際にはそんな風にはなりません。 なぜでしょう。 答えは、朝日にあるそうです。 朝日を浴びることでそこから一日が始まる、と、 身体が認識し、誤差を修正するため、 規則正しい生活が送れるのだそうです。 そう、逆に言えば、 きちんと朝日を浴びないと、 一日のリズムはどんどん狂っていくことになります。 今回の節電を受け、 世の中は、これまで以上に電力を意識するようになりました。 そこにかけている情けは、 きっと、被災地へ向かい、 環境へ向かい、 自然に向かい、 自分に還ってくるのだと思います。 夜勤で働くことに意義のある職種も多いため、 必ずしも夜中の電力をカットすることが 良いわけではありませんが、 体内時計のことなどちょっと思い出しながら、 朝日を浴びるために夜早く寝る、 そんな風に考えるのも良いのかも知れません。

『自分と向き合うデザイン』

 食べられる餅

日頃の行動から、想像力を働かせることができます。 「今、○○をやったら、これは××になるから、  その時に△△できるように□□を用意しておこう。」 という具合に。 想像力、という言い方をすると不思議なモノに聞こえますが、 例えば、将棋やチェス・囲碁などでは、 如何に相手の手筋を読むかが、 勝敗を分けるポイントになったりします。 手を読むとはいっても、 勿論、あくまでも想像の中でしかありません。 ただそれは、当たるも八卦当たらぬも八卦、 というような、運任せなものでは無く、 様々なデータを補完することによって、 より、精度を高めて行くことができるものです。 過去の対戦の流れ、 得意な手筋、 相手の性格、 今の気分・・・などなのでしょうか。 実際の棋士さんに伺わないとわかりませんが、 素人の私が考えても、 考えられること、は沢山あります。 将棋では、 表現される舞台は将棋盤の上、 表現するモノは将棋の駒、と決まっています。 しかし、現実の社会はどうでしょうか。 勿論そんな風には決まっていません。 考えるべき要因・要素も、 溢れかえっています。 もし、機器に頼るのなら所謂スーパーコンピュータ、 などと呼ばれるモノが登場するところです。 人間が行う場合は、どこかで線引きをする必要があります。 考えるべき対象と、 考えるべき範囲を、制限しなければいけません。 人間は考える事ができる生き物なので、 沢山のことを考える事は可能です。 しかし、デザインで言うところの、 想像力は、 考えた結果を行動に移さなければ意味がないのです。 考えただけで終わってしまうのなら、 それは結局何も残さないことになります。 創造につながらない想像は、 絵に描いた餅です。 デザインは絵に描いた餅を食べられるようにすることです。

『自分と向き合うデザイン』

 儀式

これからは、自分自身の時事的なものも絡めながら 書いていきます。 昨日、辞令を頂戴しました。 以前、会社に勤めた時は、 同期入社が800人という事だったので、 勿論一人一人いただくなどということはありませんでした。 今回改めて手渡しで辞令を受け取り、 やはりちょっと違った感慨を受けました。 権威とは常に、 形式とともにあります。 権威を象徴するのに最も重要なのは、 儀式化された形式を常に守り通すことです。 逆に言えば、最初はただの形式でしかなかったことも、 時間が経つと同時に、 伝統や儀式と呼ばれるようになり、 本来の意味・内容とは異なる、 形式が存在することに依拠した内容を有するようになります。 権威主義、などという表現は 多くの場合、ネガティブな響きとして認識されていますが、 権威を象徴するところまで突き詰められ、 まもられてきた形式は、 その内容とともに大きな価値を生みます。

『自分と向き合うデザイン』

 想像を超えた現実

新年度を迎え、改めてブログをはじめたいと思います。 兎に角、書いていきます。 今日、4月1日、新年度が始まりました。 日本における4月とは、 桜をはじめとした様々な草花が咲きほこり、 日一日と暖かみを増していく日差しを、 肌で感じられるような、そんな季節です。 しかし、今年の4月は、そんな季節感とは裏腹に、 なんと苦しみの中から始まる人が多いことでしょうか。 様々な事態を想像して、 そのために必要なモノを創造すること。 それがデザインに求められていることです。 なぜ、想像して生み出さなければいけないのか。 むしろ、多くのデザイン方法論では、 実際に試すことを強調しています。 しかし、本当に必要とされているモノとは、 そんなに簡単に試すことができるようなモノ、 なのでしょうか。 例えば、宇宙空間で使用するモノ、 例えば、両腕が完全に麻痺した状態で使用するモノ、 いずれも、重要度は高そうですが、 いずれも、容易には試すことができません。 今回の地震による津波、 津波による原発事故、 いずれも想像はされていたようです。 でも、その「想像を遙かに超えていた」、 という言葉を何度聞いたでしょう。 それほど、現実的に何かを想像いていくことは 難しいのです。 デザインは、その想像力から生まれます。 発想とは想像が発せられることです。 より、現実的に問題を想像し、 より、理想的に解答を創造すること、 それがデザインの使命です。

『自分と向き合うデザイン』

 東北・太平洋沿岸地震

Twitterが最も早かった。 タイムライン上を一斉に流れていった地震を告げるつぶやき達。 名古屋の友人から始まり、 すぐに東京へ移り、 「大阪」という単語を目で認識した直後、 身構えると同時くらいに揺れを感じました。 振動に弱い機器を用いていたため、 本能的にその機器の元へ、身体が勝手に向かっていました。 機器が問題無く作動を続けていることを認識した直後、 「震源地は宮城県付近」という言葉が目の隅にとまりました。 電話は既に不通になっており、メールも送れない。 今回ほど、SNSであるTwitterの必要性を強く感じたことは、 これまで無かったように思います。 140文字の限られた時空を活用し、 多くの情報が飛び交っていました。 Twitterで被害の規模を知り、 少し遅れて電話とメールで安否を確認しました。 今回の件は、これからのSNSに対して、 様々な影響を与えると考えられます。 まず、私の場合は、 自分がフォローしている人たちのつぶやきは信頼できます。 ほとんどが現実社会で会ったことがある人や、 または、人格を持たないbotだからです。 しかし、こういった緊急の事態では、 その中に多くのRTが入り込みます。 今回、「拡散希望」などの言葉を含んだ多くのRTが回りました。 現実の社会でも「噂」というモノがあります。 ひどいものでは、現実が歪められ、 何が事実なのかわからなくなることも、 少なくありません。 RTとは、捉え方によっては、 噂と同意語のようにも感じられます。 公式RTに至ってはそのまま正確にトレースされるため、 精度としては現実の噂を遙かにしのぎます。 では、現実の噂とRTの大きな違いはなんでしょう。 最も大きな違いはその速度です。 噂があくまでも口伝を主としているのとは異なり、 RTはインターネット上を、 まさしく光の速度で広がっていきます。 尾ひれは付きませんが、 もしも最初の時点で誤りがあった場合、 誤りのままあらゆる人々に情報が届けられることになります。 そして、そこには悪意も入り込むのです。 偽名というペルソナによってまもられながら、 悪意は光の速度で展開していきました。 僅かな悪意が、 多くの善意によって蔓延していく。 極めて

『自分と向き合うデザイン』

 常に自分自身

自分の経験から、現在の電子カルテの問題点を考えてみます。 何事もそうですが、 一番大切なのは自分自身がどのように感じるか、ということです。 「何時か」 「何処か」で 「誰か」が 「そんな風なこと」を言っていた、 では、 相手を説得できません。 以前もこのブログで書きましたが、 一番重要な点は、 そのモノを本当に自分が欲しいと思えるかどうか。 それがスタートラインです。 では、自分が直接用いないモノ、 使わないモノ、 もしかしたら一生関わらないモノに関しては、 どのように考えていけば良いのでしょう。 このことは次回以降に回して、 まずは自分が直接関係するモノから考えてみます。 しかし、世の中には、 どれだけ 「どっかの誰かが好き」 「みんなに人気がある」 という考えの元につくられているモノが多いことでしょう。 特に2000年に入ってから、ISO13407がらみで こういった考えが普及したのではないでしょうか。 ただ、こういった考えが悪い、 というわけではありません。 様々な試行錯誤の中で、 物事を説明するために生み出されて来た方法論だからです。 使用者・ユーザーという視点で製品を整理してみると、 色々な見え方をします。 例えば、携帯電話などのプライベートな製品は、 多くの場合、機器を使用する人と、 その機能の恩恵を受ける人が一致しています。 では、ちょっと大きく離れますが、 医療機器などはどうでしょうか。 機器を使用するのは、
お医者さんをはじめとした医療従事者の方です。 一方、その機能の恩恵を受けるのは、 患者という、機器を用いた医療従事者とは全く異なる人です。 これは使用者に限った表現ですが、 厳密に言えばもっともっと関係者は増えていきます。 もう少し具体的に、手術室で使用する機器を考えてみましょう。 まず、その製品をつくるメーカーサイドの人がいます。 次に、その製品を購入する人がいます。 いよいよ使用者に入りますが、 医療機器という特性上、 例えば、医者に機器を渡す看護師がまず関与する可能性があります。 そして、実際に使用する医者、 その機器を使用されるのは患者、 使用された医療機器はディスポーザルのモノであれば、 看護師の手に渡り廃棄されます。

『自分と向き合うデザイン』

 カルテの問題点

一口に電子カルテと言っても、 開発しているメーカーは一社だけではありません。 だから、各社競い合って良いモノができあがる。 というように、シンプルに物事はもちろん進みません。 当然、社間を越えて共有できるデータにはなっておらず、 基本的には病院内で情報を保存するためにのみ使われています。 活用のされ具合は病院によって異なりますが、 これまで紙で行われた作業がそのままパソコンに移行した、 程度のところもあるはずです。 電子カルテの問題点を言及する前に、 今でも診療所などで使用されている 紙のカルテの問題点を考えてみます。 最近私自身が体験したとこととして、 過去の履歴を反映させにくいという点があります。 比較的健康体である私は、滅多に病院に行くことがなく、 多くて一年に一度、という状態です。 そんな私ですが、冬になると空気が乾燥するため、 どうしても喉が炎症を起こしやすくなります。 私の場合は放っておくと喘息の諸症状が出てくるので、 炎症の起こりはじめで対策を立てようと思い、 先日、約一年ぶりに内科に行きました。 去年はこの最初の段階を甘く見ていたために 大変酷い目にあったからです。 自覚はできていますが、症状としては大変軽いので、 客観的には、健康なのか風邪なのか喘息なのかわからない、 という状況だったと思います。 しかし、去年、悪化してから診察を受けた際に、 「もっと早めに来てもらえれば」、 と言われたこともあり、 多分、去年のカルテを参照して気管支系の薬をくれるんだろうな、 と考えていました。 簡単な問診と触診の後に出てきたのは、 「熱もないので大丈夫そうですが、  風邪のお薬だけ出しておきましょうか」 という言葉でした。 ?あれあれ? いや、実は昨年の同じくらいの時期に・・・。 と話すと、ようやく過去のカルテを見られて、 血中酸素飽和度や喉の炎症に診察の対象が向かいました。 そんな経験から現在のカルテの問題点を考えます。

『自分と向き合うデザイン』

 Karte

生体情報管理、という意味では、 近代医学になって診察時の様々な情報を記すために、 カルテというものが使用されるようになりました。 カルテにはその時の患者の生体情報だけでなく、 診察の内容や処方されたお薬まで、 医師法に定められた内容に沿って、 多くの情報が記述されています。 "Karte" カルテは元々「Karte」と表記されるドイツ語で、 英語の「card」に相当する言葉とのことです。 医学の分野では、明治時代にドイツから伝わってきたモノが 今でも数多く残っており、カルテもその一つです。 そのため、カルテの内容はドイツ語で記述されていました。 今は英語でも記述されているようです。 Karteは日本語訳としては診療録が当てられており、 録という言葉が示しているように、 残すことを目的として記述されたモノになります。 カードという意味からもわかるように、 元々は医師が手書きで記録していましたが、 このカルテも情報化社会にのり、 ここ10年ほど前から、電子化されるようになりました。 膨大な量のデータの管理は、 コンピュータが得意とするところです。 保管・整理・検索によって、 患者一人一人の情報がきちんと保存され、 必要な時に探索することができる、 と、予想されていました。 しかし、 現実にはなかなかそのようには運用されていないようです。

『自分と向き合うデザイン』

 認証

自分自身に固有の生体情報を考えてみます。 指紋・声紋・虹彩など、 昔から言われていたものに加え、 静脈のパターンなども数年前加わりました。 これらは個人によって異なり、 さらに、変更することが困難であることから、 認証に用いられるようになりました。 しかし、例えば、 B級映画などでよく出てくるように、 変えようと思えば、変えられます。 変えたい相手の皮を被ったり、、、 という方法になるようですが。 その点から考えると、 静脈認証は変更が難しい点で優れているようです。 これらの認証方法は、 以前は警察が犯人の特定のために用いたり、 大変強固なセキュリティを誇る建物などに用いられていましたが、 最近では携帯電話はパソコンの認証に藻と、 もっと一般的に用いられるようになりました。 今後、ソーシャルネットワークにおける認証必要性が高まり、 生体情報による認証が一般化すれば、 ますます需要は増えていきます。 その時に、「可変な情報」と「不変な情報」を、 どのように扱っていくのか、 ということが、個人の生体情報管理の上でが重要になります。

『自分と向き合うデザイン』

 生体情報

生体情報と言った場合、どのようなものが含まれるのでしょう。 普段の生活ではあまり考えることはありませんが、 例えば、映画やドラマの世界ではどうでしょう。 最近では医療系のドラマが様々ありますが、 その中からよく聞こえてくる言葉として、 バイタルサインというものがあります。 具体的にバイタルサインそのものが何であるかは知らなくても、 イメージはできるのではないでしょうか。 つまり、それは、人が生きていることを示している印、 まさしく生体情報に関するものです。 分類方法はいくつかあるのですが、 特に緊急時などは下記のものが重要視されます。 ・呼吸 ・脈拍 ・意識 さらに専門的に観察する技術があれば、 下記のようなものも調べることができます。 ・脳波 ・体温 ・筋電 これらは時系列的に変化する生体情報と言えます。 その時々によって変化するために、 その人の「今」を調べることができます。 つまり、一般的なものや過去の自分自身のものと比較することで、 初めて意味が生まれ、価値を持つことになります。 一方、自分自身に固有の情報もあります。

『自分と向き合うデザイン』

 新しい個人認証

昨今明らかになり、話題を集めたモノとして、 DNAの解析というものがあります。 お陰で自分自身を構成している遺伝子を 「情報」として捉えることができるようになりました。 本当に自分自身を一意的に定めているのかどうかは、 世界中のすべての人のDNAを解析しない限りわからないので、 演繹的に正しいとは言えませんが、 その考え自体はおおよそ間違っていないと考えられます。 しかし、DNAが解析されたからといって、 「私はこういうものです」といってその塩基配列を示すことは、 コミュニケーションとして成立しているとは言えません。 そもそも、そこに記されている情報とは、 どういったものなのでしょうか。 その人が何時亡くなるのか、 そんなことまでが記されているのでしょうか。 DNA解析までいかなくても、 医学的に個人情報を見つめる手段は昔から考えられていました。 例えば、 「熱がある」や「脈が早い」などはその代表でしょう。 従来、そういった医学的な情報は体外に保存されてきました。 病院に行けばカルテに「病歴」というものが残ります。 同様にその時に薬剤を処方してもらっていれば 「処方箋」というものにも記録が残ります。 遺伝子にはそういった情報まで記録されていくのでしょうか。 もし、 DNA解析が個人でも容易に即時的に行えるなら、 今までそのように体外に保存されてきた病歴や処方箋は、 常に自分自身のDNAに格納して移動しているように、 振る舞うことができるはずです。 これはこれまで生体情報として個人認証に用いられてきた情報に 置き換えることができることを意味しています。 指紋や声紋・虹彩・静脈紋の大体として、 DNAから遺伝子の情報を抜き出して、 個人認証に用いることができます。

『自分と向き合うデザイン』

 Portfolio

あなたは誰ですか? という質問に対して、 明確に答えられる人はどのくらいいるのでしょう。 この場合の明確に答えるとはどういう意味なのでしょう。 大半の人が「私は○○です。」と自分の名前を答えるはずですし、 それは多くの場合、正解です。 しかし、それでは、名前が持っている意味とは何でしょう。 このように考えていくと、行き詰まってしまいます。 名前と個人が結びついている人が少ない故に生じることであり、 identityに関する問題として昔から問われ続けた事柄です。 そういった哲学的な問題ではなく、 実存としての自分自身を考えていると、 もう少しだけ考えやすくなります。 と、その前に、 ちょっとデザインに関することを話しておきますと、 デザインでは自分自身を示す、最も簡単の方法として、 Portfolioを見せる、ということがあります。 Portfolioとは直訳すれば紙ばさみとなるそうですが、 デザインでは 「これまでに作成した自分の作品をまとめたファイル」 のことを指します。 それを一冊(もちろん複数冊でも結構です)見せることによって、 自分が何者であるかを会ったことがない誰かに示すことができます。 逆に言えばportfolioはそういうものになってなければいけません。 例えば就職活動などが顕著なところです。 まずportfolioを先方に送って第一次審査です。 履歴書、ということもできるのかも知れませんが、 resumeというよりもportfolioの方がしっくりくるのは、 その言葉の意味から来ているのでしょうか。 portfolio = portare + foglio = carry + leaf と思ってちょっと調べてみると、portとfolioに別れ、 それぞれ、carryとleafという意味からできた言葉になるようです。 また、folio自体は今でも使われる単語で、 一度だけ折った紙、という意味のようです。 つまり、運べるバインダーでportfolio、 あまりにもそのままの意味でちょっと残念ですが、 一綴りの持ち運べるファイル一冊で自分を説明できる、 それがデザイナーという言い方もできそうです。 では、今度はもうちょっと科学的に「自分」を説明してみます。

『自分と向き合うデザイン』

 名前

ブログを再開します。 近々、全面的に改修します。 それまではこちらで引き続き言葉を残していきます。 落ち着くまではまずは自分へのメモとして。 復活、一つ目のはこちらです。 自己の情報を本人が管理する必要性と重要性。 ソーシャルネットワークが普及し、 ネットワーク内における自己の意味や位置づけが変化しています。 特に、変わってきたのは名前の位置づけではないでしょうか。 やがてハンドルネームという響きすら聞こえなくなりそうです。 「名前」はその社会において自己を一意的に定めることができます。 同姓同名とは無関係にあくまでもある社会においては一意的です。 しかし、あくまでもある社会、と表現したのは、 登録されたものであるが故に個人を特定しうるという意味です。 逆に言えば、名前が社会に登録されているのでidentify可能である、 という意味でしかありません。 personalがpersonaであるように、 個人を定めるのは難しい問題です。 では、身体情報はどうでしょうか。 身長・体重といった情報から、 今の健康状態・過去の病歴など、 物理的に自分自身を形成している情報は、 極めて一意的に自分自身を定めることができます。 指紋や声紋といった生体情報を用いた認証が 重要視されるのもそのためです。 ソーシャルネットワークによって、 これまで自己が依存していた社会の自由度が増します。 例えば国籍といった社会とは違う場所に、 自己を確立する必要性が生まると予想されます。 その場合、今度は実名だけでは、 一意に定めることができなることが予想されます。 実存としての自己を定めるには、 生体情報をどのように取り出し、 認証していくのか、にかかっていくのではないでしょうか。