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5月, 2010の投稿を表示しています

『命と向き合うデザイン』 

 “見せること”

There is a positive circuit of exhibition. I want to think about showing and being shown. To begin with, my first sketch might be a shape that it wants someone to see. Syd Mead’s drawing method draws the thumbnail sketch of scene containing the main product. The method focuses on the showing and the being shown. Where? When? Who? What? Why? How? A piece of sketch can show all information. And good exhibition can show all information. 展示のポジティブ相乗効果。 見せることと、見られること。 そもそも、 最初に描くスケッチは、 そのモノの見てもらいたい姿、 なのかも知れません。 Syd Meadの描き方は、 サムネイルのシーンスケッチを、 描き出していくもの。 それはつまり、 どのように見えるか、 どのように見せるか、 という点に注力したスケッチです。 どこに、どんな風に、置かれているか、 どんな人が周りにいるか、 どんなモノが周りにあるか、 それはいつなのか、 どんな風に使われるのか、 などなど、 一枚のスケッチで伝える強さ。 展示はそれを空間で伝えます。

『命と向き合うデザイン』 

 “見せる”

Exhibition. That is an act of showing someone something. You need something and someone. If that is event, there should be a lot of audience. Well, why do you want to invite a lot of people? Because you want to show a lot of people it. Well, why do you want to show a lot of people? Because you designed it as well as you can. That loop becomes positive circuit. This circuit makes better design. 見せる。 何かを誰かに見せるという行為。 「何か=モノ」と「誰か=対象者」が必要です。 もし、 それがイベントならば、 沢山の人を呼べた方が良いはずです。 では、 沢山の人を呼びたい、 という気持ちは、 どこから来るのでしょうか。 それは、 沢山の人に見せたい、 という思いから来ます。 では、 その思いはどこから来るのでしょうか。 それは、 見せるモノを一所懸命につくることによって、 生まれてきます。 一所懸命につくったこの展示を、 多くの人に見てもらいたい。 だから、 多くの人を呼びたい。 そして、 多く人が来るはずだから、 もっともっと、 展示の質を高めていきたい。 そういったポジティブな相乗効果によって、 よりよいモノとコトに仕上がっていきます。

『命と向き合うデザイン』 

 “適応能力”

Let’s write my blog with new divide. I can become accustomed to new item early. I just use new item repetitively because I’m interested in new item. Accordingly, I become accustomed. The body of creature takes the easy course of life. That is street wisdom. If you use new item, your body select the easiest way without knowing it. And your body gets the essential power. 兎に角、書いてみる。 新しい機器で、 今、書いています。 私は新しいモノへの適応は、 比較的早い方です。 適応が早いというよりも、 新しいモノ、や、 変わったモノ、に、 あまり抵抗を感じないため、 何度も使うことができ、 結果的に、 早く適応できているのかも知れません。 生物の体は常に、 少しでも楽をしようと思って動きます。 それが生き残るための智慧だからです。 新しい機器を使用する事になると、 体は無意識に、 体にとって一番楽な使い方は何かを考え、 そのように動けるように、 力を付けます。

『命と向き合うデザイン』 

 “葡萄”

I have imaged the possibility of what I want since early time. “Can that toy do this? Or do that?” The child’s imagination is so powerful. The image commodity’s specification is more superior to the real commodity’s one. At the result, when I get the commodity, I’m a bit of a pity. I image the possibility because I can’t easily get the item. I think real hard because I want to get it. When all is said and done, I love to imagine. 昔から、 何かほしいモノがあると、 その商品に対して、 想像を膨らませる癖がありました。 あのおもちゃは、 こんなことができるのかな? あんなことができるのかな? こんなことはできるのかな? あんなことはできるのかな? そんなことを、 子供の豊かな頭で考えてしまいますので、 たいてい、 商品のスペックよりも、 夢の大きさ分だけ、 スペックオーバーになってしまいます。 結果、 いざ、買ってもらうと、 あれ?こういうことはできないの? なんてことにもなったりしました。 簡単に手に入らないからこそ、 それに対して想像を膨らませる。 欲しいモノだからこそ、 色々なことを真剣に考える。 何を言っても、 そんな風に新しいモノを想像することが、 兎に角、 好きみたいです。

『命と向き合うデザイン』 

 “少多では賄えない”

I’d like to think about oxygen saturation again. It isn’t medical story but what I felt things. The amount of oxygen contained in atmosphere doesn’t change. If your bronchial tube becomes thin, you can increase repetition of your breath to solve the insufficient oxygen. But, this problem doesn’t solve. The increasing repetition of breath can’t increase your body-needed oxygen. I have been said by the student of Faculty of Nursing in old times, " The color of your fingernail shows the symptom of the cyanosis". 血中酸素飽和度を考えてみます。 医学的な意味ではなく、 なんとなく不思議だなと思ったことです。 大気に含まれている酸素濃度は変わらないため、 例え、気管支が細くなっていても、 一度に一杯入らない分だけ、 繰り返し呼吸すれば、 ことは足りそうなのですが、 実際はそういかない。 走った後のように、 何度も何度も、 繰り返し呼吸を繰り返しても、 苦しい状態が続く。 そして、 計測してみると、 酸素飽和度は94%だったりして、 そりゃ苦しいよね、と。 多い・一回、を、 少ない・多数回、にしているだけなのに、 それではだめなようです。 そういえば昔、 看護学部の子に、 「先輩の爪の色、チアノーゼの人みたい」、 と言われたことを思い出してみたりする。

『命と向き合うデザイン』 

 行列のできる商品

I want to talk about the value of time. You want to buy the commodity. If the item is so popular, many customers in the store form a line. And, the sign will enter the stage. It says, “Please wait 2 hours”. If you recognize the value of the item, you can wait 2 hours. I try to think about “Needed time / Profit or Benefit” for this case. You think that “Needed time = 2 hours < Profit or Benefit”. もうちょっとだけ、 時間の価値を考えます。 ある商品を購入するために並ぶとします。 人気のある商品には、 行列ができることもあります。 そのうちに、 「こちら最後尾。2時間待ち」 などと書かれたボードが 出てきたりします。 それでも、 それだけの価値、 つまり、 「2時間待ってでも手に入れる価値」がある、 と判断されれば、 更に行列がつくられることになります。 この場合、 「仕事に必要な時間/得られる益」 を考えてみると、 必要な時間=2時間に対して、 益が大きいと判断されたのだと言えます。

『命と向き合うデザイン』 

 トキのお見積もり

How much time is necessary for the work? Does the work have the value that corresponds at time? How much is the value of the work? The estimate of work time is so important. But it’s too difficult. If you know budget and the list price, you can estimate the cost of commodities. Let’s apply this system to the estimate of time. Budget: Human or other power Price: Needed time / Profit or Benefit Is this OK? Let’s check the hypothesis of “price”. If the relationship between numerator and denominator is “Needed time > Profit or Benefit”, the price is high. If the relationship is “Needed time < Profit or Benefit”, the price is low. その仕事には、、、 どれだけの時間が必要なのか。 それだけの時間を掛ける意味があるのか。 そもそも、 どれだけの価値があるのか。 時間の見積もり。 大切です。 お金の見積もりは、 予算と定価がわかれば、 大凡立てることができます。 これを時間に当てはめると。。。 予算:自分、またはそれに代わるものの力 定価:仕事に必要な時間/得られる益 という感じでしょうか。 (単位が合ってないけど、  それは置いておいて。  というか、合ってないって次元じゃない) 必要は時間が大きいのに、 得られる益が少ないと、 定価が上がります。 逆に、 時間が掛からないのに、 益が大きい場合は、 定価が下がる。 つまり、 より儲かります。

『命と向き合うデザイン』 

 トキのカチ

I feel the difference of the passage of time. If you are in unusual location at an unusual time, you can feel unusual for the passage of time. The perception for time would change by one’s subjectivity. It is often said that the happy time is short, but grueling time is long. The actual time is same. But subjective time is difference. Time is equal for all people and it has always had an end. The time is limited and it is up to your consiousness. How do you spend the time? What do you want to feel at that time? There is no clock that can time your own aesthesia of timing. 時間の流れ方が違う。 いつもと違う時間に、 いつもと違う場所に居ると、 いつもと違う速度で、 時間が流れるように感じます。 ただ漠然と過ごすのではなく、 主観を切り替えるだけで、 時間に対する認識は、 簡単に変化します。 よく、 楽しいことはあっという間、 苦しいことは長い間続く、 という表現をします。 実際、 主観で感じている時間はそうなのでしょう。 時間は、 必ず終わりがあるという意味で、 全員に平等に与えられています。 その限りある時間を、 どのように過ごすのか、 どのように過ごしていると感じのかは、 時計では計れない、 自分だけの時間です。

『命と向き合うデザイン』 

 呼吸と体と心

I knew the breath is Honest John. If I suffer from both physical and mental burdens, my breath immediately goes wrong. So if I can control my breath, I become master in my own body. 呼吸は正直である。 肉体的、精神的負担が増えると、 呼吸は即座に反応する。 逆に言えば、 呼吸をコントロールすることは、 肉体や精神をコントロールすることに 似ている。 常に深くゆっくりと。

『命と向き合うデザイン』 

 モノのカチ

It is “process” that the collector is interested in. So, the collector gets board immediately after he collected the things completely. There is sense of superiority and satisfaction as pride of possession. On the other hands, your original items satisfy your other sense. The name of it is also probability pride of possession. What is pride of possession? コレクションは、 集めていく過程が楽しい。 集めきってしまうと、 どこか興が冷める。 集めたられたモノは、 特に、使われることを、 その存在理由にはしていないことが多い。 所有している、 という、満足感・優越感。 同じ、所有しているという意味では、 自分だけのモノ、 自分オリジナルのモノ、 は、逆の意味で所有欲を満たす。 コレクションは、 みんなが手に入れる可能性を持っているモノ。 オリジナルのモノは、 自分にしか持ち得ないモノ。 所有欲とはつまり。

『命と向き合うデザイン』 

 “鍛練”

There is a difference of values. What is a mechanism of anger? My emotion is changing from anger to sorrow. Can I understand the meaning of “慈悲”. That is like a Japanese love mind. If my anger’s object changes from the object to the phenomenon, I may understand the meaning of “慈悲”. But, I cannot reach the position now. I write that event at my leisure. I think back and read again over and over. It is my temper. 価値観の相違。 怒りのメカニズム。 悲しみへの変換。 物事に対する感情が、 怒りから、 その存在に対する悲しみへと、 リニアに変換される。 慈悲という言葉の理解と、 その実践の持つ困難性・意味性・価値。 怒りの矛先が、 特定の対象物から、 その現象自体に対する悲しみへの 変換されるとき、 次の段階としての 慈悲が見えるのかも知れないが、 現状はそこまでも辿り着けず、 況んや、特定の対象物をや。 ということを、 ゆっくりと記述することによる、 思い返しと、読み返し。 その、繰り返しは、 自己の鍛練。

『命と向き合うデザイン』 

 手付きを真似る

When I was little child, I saw that my mother dressed my sister’s hair. I recall that situation when I dress my hair by myself. And I think that I imitate my mother’s practiced hand. In most cases, human’s action is inevitable in each situation. Even if I don’t recall her action, my action is like her action. Human set the vision when they acquire master’s skill. They imitate the practiced hand in the vision. But, I don’t think about watching the skill while imitating. If you get the vision in the deepest you, the vision naturally comes up when I need that. 小さい頃、 母親が姉の髪の毛を結う仕草を、 なんとなく、ぼぅっと見ていた。 今、自分が同じようなことをしようとする時、 ふっとその情景を思い出す。 そして、 その手付きや、 仕草を真似ている自分を自覚する。 多くの場合、 そういった行為は必然であり、 故に、 思い出さなくても 勝手にそうなるのかもしれない。 「技」を覚えていくときというのは、 何かしら理想があるのかもしれない。 それを模倣しながら、 自分のものにしていく。 しかし、 目の前で見て、 それを真似るのは、 どこか違う気がしている。 心の中のどこかまで、 深く落ちたことは、 必要な時にスッと浮いてくるのだと思う。

『命と向き合うデザイン』 

 ”書籍の覚え書き−3”

What is concentrating? That is what uses your power for one event. I wrote the topics of reducing the noise. The first thing is shut down information from outside to use your power for one event. You can do that for the five senses. But, it is so difficult to stop the thinking. Your brain thinks something freely. “How did that become?” The orthodox method is to stop the thinking. But, I learned the new method. That method says that you should receive all of thinking as it is. The result, all of thinking flows out of your mind. The method has an effect for human mind. Human’s brain gets tired of simple stimulation. This method makes use of this feature. 集中するということは、 つまり、 一つのコトだけに注力し、 他のコトを行わないということ。 以前、 ノイズを減らす、という話を書きました。 他のコトを行わないようにするために、 最初にする事は、 外部から入る情報を極力減らす、 という方法です。 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚、は、 制限することができます。 最も難しいのが、 思考、です。 脳は勝手に勝手なコトを考え始めます。 「あれってどうなったっけ?」とかとか。 こんな時、普通は、 考えちゃだめだ! と考えてしまいます。 しかしここで、 思考にのぼる一切を、 あるように受け止めること。 それによって、 自然に流していく。 それが一番効果的、

『命と向き合うデザイン』 

 ”書籍の覚え書き−2”

Human’s mind wants stimulation. It catches more powerful stimulation as better stimulation. If it doesn’t get stimulation from outside the body, it tries to get stimulation from inside the body. So that means ownership’s thinking. It catches the positive stimulation and the negative one alike. Even if the stimulation is negative, human’s mind repeatedly wants that stimulation. That is cycle of negative. 人間の心は、 より強い 刺激 を好意的に受け止めるそうです。 外部に刺激がない時は 内部、 つまり、 自分の考えに求める。 プラスの刺激も、 マイナスの刺激も、 全て一様に刺激と受け止めるため、 マイナスな要素でも、 繰り返し欲するようになる。 これが負の連鎖につながるそうです。

『命と向き合うデザイン』 

 ”印象に残った言葉”

“I have emotionally distress now. But, I should not think like that now. There is a lot I can do.” One doctor said. That word is very simple. This is easier said than done. Most people lool for the way that one can get so easy. However he selected other way. The way will be hard load. And he got a ray of hope. That is what professional style. 「精神的に辛いけど、  それは後から考えよう。  まずは、  目の前に見えることをしよう。」 お医者さんが言われた一言です。 たったこれだけのコトですが、 これ、 できる人はどのくらいいるでしょう。 辛くて大変、 今そのことを考えて、 寧ろ、 自分を慰めたい。 それが普通の人の考えです。 でも、 それをしない。 寧ろ、 辛い方へ向かっていく。 そして、 結果として、 光ものを掴む。 これが、 一流なのだと感じました。

『命と向き合うデザイン』 

 ”書籍の覚え書<六門>”

「六門」 I had read a book of Buddhism. That book said like what I said before. I’d like to write that contents. But I can’t gather the contents. I make a note for the present. I wrote human have only five sense organs. But, that book said human have six senses. Those are Eye, Ear, Nose, Tongue, Body and Consciousness. They call those “六門(Rokumon)”. Buddhist think that human recognize outer stimulation from those six gates. Those six recognitions is self-awareness. If we actively use those sense, we can get the state of “念”. “念力” means power of finding. “定力” means power of changing the mind work. I wrote those contents. 最近読んだ本の中に、 以前、 ブログで書いた内容に係るものがあったので、 そちらをどこかで書きたいと思います。 書きたいことがまとまっていないので、 取り敢えず、覚え書きとして。 以前、私は、 人間が持っている感覚器は5つだ、 と書きました。 それに対して、 仏教では6つの感覚があるとのこと。 目・耳・鼻・舌・身・意 「六門」 六つの扉によって、 外部の刺激を情報として認識する。 それぞれ、 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・思考 が働き、感覚を得る。 それによって、 「我」を認識するとのこと。 これらを能動的に使うことで、 念が込められている状態になるとのこと。 仏教では「気付く力」のことを、 「念力」と言うそうです。 念力を受けて「心の働きを変える力」

『命と向き合うデザイン』 

 ”観点”

「観点」 I try to think about the word of “観点”. “I think about this problem from that standpoint.” What’s meaning of this word? 広辞苑 says that ‘standpoint’ is the position from which a scene or an object is viewed. Let’s see each Chinese character. “観” means looking out over after arranged object. “点” means marking special spot. I think about “觀點” again. The meaning is standing on the special spot and looking out over the arranged object. What meaning is “looking out over”? It isn’t “comparing”. So, objects in view are not only the target object but also all objects. 「観点」という言葉について 考えてみます。 「○○という観点に立って考えてみる」と、 気軽に使っていますが、 実際にはどのような意味なのでしょうか。 広辞苑によると、 「物事を観察・考察する立場。」 それぞれの漢字について見てみます。 「観」とは『漢字源』(学習研究社/藤堂明保)によると、 「会意兼形声。  觀の左側の字(音カン)は  口をそろえて鳴く水鳥を示し、  そろえる意を含む。  觀はそれを音符とし、  見を加えた字で、  ものをそろえて見渡すこと。」 「点」とは『漢字源』(学習研究社/藤堂明保)によると、 「会意兼形声。  占は「卜+口」の会意文字で、  占って特定の箇所を選び決めること。  點は「黒+音符占」で、  特定の箇所を占有した黒い印のこと。  のち、略して点と書く。」 旧字では「觀點」と書いていたようです。 これによると、 「選び決

『命と向き合うデザイン』 

 ”尤も”

I can clear my thinking by talking with someone. And I will understand it deeply. It is so difficult to tell contents that sound like the truth. If you tell contents that sound like the truth, you have to become specialist in its field. Someone is good at telling story that sound like the truth. That is superiority ability. But, I don't have such ability so that my story is often exposed as a fake. Instead, I can't stand with being a big talk. So, if I talk to someone, I have to become specialist in a small world. If I become specialist, I’m not afraid of unexpected questions. 人に話すと整理できる。 人に話すことで自分の中に定着する。 尤もらしく話すことは難しい。 尤もなこととして話すには、 自分の中で尤もな状態にしなければいけない。 尤もらしく話すことが得意な人もいます。 それは一つの卓越した能力です。 しかし、 私はどうやらばれるらしい。 というか、 自分でばらしたくなるらしい。 だから、 人に話をするためには、 自分の中で尤もな状態にしなければいけない。 尤もな状態になっていると、 どの切り口から切っても、 話ができる。 予想外の質問が来ても、 議論をすることができる。 つまり、 それが、 尤もな状態ということ。

『命と向き合うデザイン』 

 ”伝えるために”

There is one purpose to reduce noise. That is to make it easy to see what you want to show. The difference between art and design is the same as the one between subjective view and objective view. Why does designer express their works with objectivity? They have clear purpose. That is to indicate what they want to express. That’s the reason they remove noise or obstacle. ノイズを減らす目的は一つ、 見せたいモノを見やすくする。 アートとデザインの違いは、 アートが つくり手の主観を表現するのに対して、 デザインは つくり手が客観性を持って表現します。 客観性を持って表現するのは、 つまり、そこに目的があるからです。 つかい手がいて、 つかい手に共通の何かを受け取ってもらうために、 客観性を持って表現します。 その最も良い状態は、 つくり手の意図が、 真っ直ぐつかい手に伝わることです。 真っ直ぐに。 つまり、 邪魔なモノがない状態です。 それが見せたいモノが見やすくなっている状態。 そのために、 ノイズを減らします。

『命と向き合うデザイン』 

 ”ノイズ”

NOISE When you can’t decide next step, what should you do? Do you try your hand at the seeing work in front of your eyes? Or should you think before act? Why don’t we delete the seeing work? Because you can see many works, you can’t take aim at a target. That is to say reducing noise. We normally can select the important work from overflowing noise. But, the selection power isn’t perfect. So, we help the power by reducing noise. The reducing noise is the basic mind of design. どこから手を付けたら良いかわからない時は、 どうするべきなのか。 兎に角見えているモノに手を伸ばすべきなのか、 それともよく考えてから動くべきなのか、 そもそも、 見えるモノを少なくする。 色々なモノが目に入るから、 狙いが定まらず、 思考が途絶する。 ノイズを減らす。 普段は、 ノイズに溢れている中から、 必要なモノだけを抽出することができている。 しかし、 希に、その抽出機能が低下することがある。 そういうときは、 ノイズそのものを減らしてやる。 ノイズを減らす作業は、 デザインの基本的な考え方の一つです。

『命と向き合うデザイン』 

 実験的思考−5

Today I tried to think about the way of thinking with the example of drawing and playing a music . I got a result that a balance between macroscopic way and microscopic way is so important. If only one-side got deeper, the balance would be broken. Seeing the whole is so important. So, that is called planning. And, we need one more object to join both. デッサン と 音楽 を例に、 無理矢理(?)考えてみました。 結果、 巨視的(マクロ)・微視的(ミクロ)の、 両方からバランス良く進むことが大切。 そう、 バランスが大切。 どっちかからばかり進んでしまうと、 途中でバランスが崩れます。 片方の比重が大きくなってしまう。 その全体を見ながら進めること、 つまり、 計画が重要です。 そして、 もう一つ大切なモノは、 その間をつなぐモノです。

『命と向き合うデザイン』 

 実験的思考−4

Let’s think about the case of playing the instrument. It is assumed that you are a player to play the old music. The first, you try to read the composer’s thinking and decide your interpretation. Next, you try to practice the detail of the music to raise quality. When you see whole of the music, you think about the position of detail and the kind of one. When you see detail of the music, you think about the role of detail in the music. If you try to practice only whole of the music, you can’t train the detail. On the other hand, if you try to practice only detail of the music, you can’t complete the music. Let’s get a result. 音楽を考えてみます。 一人で、既に存在する楽曲を演奏する場合です。 まず、 曲全体を見て、 作曲者の意図を読み取り、 曲に対する自分の解釈を決めます。 次に、 細部のフレーズやパッセージに対して、 個別に練習し、 完成度を高めます。 全体を詰める時は、 どこにどんな細部があるのかを意識します。 細部を詰める時は、 その部分の全体の中での役割を考えます。 全体を通しただけの練習では 細部は詰められませんし、 細部だけをやり込んでも、 曲としては完成しません。 これらを踏まえると・・・。

『命と向き合うデザイン』 

 実験的思考−3

If you draw the drawing watching only the whole, it’s drawing level is low. The detail of the drawing isn’t sophisticated. In contrast, if you draw the drawing watching only the detail, it’s drawing has some gap. Because the human recognize object with their various balance. We are human. So, we have these problems. If we are robot, we don’t have theses. Let’s think about other examples. 兎に角、全体からだけ見て、 デッサンを描き詰めると、 細部の完成度が落ちます。 バランスは見ているので、 なんとなくまとまったようにはなりますが、 細かく突っ込んで見ていくと、 どこか不完全に映ります。 逆に、 兎に角、細部からだけ見て、 デッサンを描き詰めると、 辻褄が合わなくなり破綻します。 人間はバランスで捉えるため発生する問題です。 そう、 共に、 人間だから発生する問題です。 コンピュータならば起こりえないこと。 デッサンで考えましたが、 他にも例を考えてみます。

『命と向き合うデザイン』 

 実験的思考−2

The standard method of drawing alternates between drawing the detail and drawing the whole. When you draw the whole, you are conscious of location of the detail. And when you draw the detail, you are conscious of the overall balance. I wrote that the human recognize object with their various balance. That is standard method. You ignore the method, now. And you try to continue to draw from the whole or the detail. What result do you get? デッサンでは、 基本的に、 対象の全体の形を大まかに取り、 次第に細部へと描き詰めて行きます。 全体を描く時は、 どこにどんな細部があるかを意識しながら描きます。 細部を描く時は、 全体のバランスを意識しながら描きます。 以前書いたように、 人間はバランスから対象を捉えるため、 全体・細部の、 両方から対象を捉えて描いていく事になります。 こんな基本がありながら、 それを無視して、 全体からと、細部からの、 それぞれから強行に描き続けた場合、 どのようになるのでしょうか。

『命と向き合うデザイン』 

 実験的思考−1

There are two ways to think about something. The first way is macroscopic way. The second is microscopic way. You can use these ways to approach one object. We often hear that they are macroscopic and the microscopic way of seeing. These expressions are so difficult to understand. For example, let’s try to think about the way of drawing. The macroscopic drawing is way of drawing from the general part to the particular part. The microscopic drawing is way of drawing from the particular part to the general part. The result is same. There is drawn form. Is there any difference between these ways? ある対象に対して、 思考を巡らす際に、 大きな部分から考えていく場合と 小さな部分から考えていく場合と、 両方から考えることで、 一つの対象に近づく方法があります。 巨視的・微視的、 マクロな視点・ミクロな視点、 と言われますが、 如何せん捉えにくい。 デッサンを描く時を例にして、 考えてみます。 巨視的な描き方としては、 対象を、 全体から描いていく、 という方法があります。 一方、 微視的な描き方としては、 対象を、 細部から描いていく、 という方法があります。 仕上がりは勿論、 対象が描かれることになります。 (上手下手は別として) では、 何か違いはあるのでしょうか。

『命と向き合うデザイン』 

 “刺激”

You shouldn’t depend on the stimulus from your outside. But, extraneous stimulus work so well for me. I watch the thing that I don’t usually watch. I hear the thing that I don’t usually hear. I smell the thing that I don’t usually smell. I eat the thing that I don’t usually eat. I touch the thing that I don’t usually touch. The human have only five sense organs. If your sense organ catches the unfamiliar stimulus, your dormant sense wakes up. 刺激 外部からの刺激に頼ってはいけない、 と思いつつも、 やはり、 外部からの刺激は大変有効に作用します。 普段見ないモノを見る。 普段聞かないモノを聞く。 普段嗅がないモノを嗅ぐ。 普段食べないモノを食べる。 普段触れないモノに触れる。 人間は、 確認されている感覚器が5つしかないので、 外部からの刺激を受容できる器官は 限られています。 ただ、これだけのこと、 馴染みのない刺激が流れてくると、 眠っていた部分が目を覚ます。

『命と向き合うデザイン』 

 伝統芸能

I enjoyed Japanese traditional arts. Their context and contents have the power of transcend time and space. 日本の伝統芸能に触れた。 その形式と内容には、 時空を越えた力がある。

『命と向き合うデザイン』 

 “モノを見ること”

I went to other museum. There is my house away from the capital city. Some museum is not easy of access. But, if I get there, I enjoy myself at the museum. If I have nearly an hour or an hour and a half, I can look at most exhibitions. And I can get so big something. The artist needed so much time to get their style. But, we can get there only an hour. That’s great. So we have to go to various museums to get the wonderful time. The work has power. We can feel the power only direct looking at their works. Looking at something is so important. On the other hand, looking at something with purpose is so important, too. We have to see and get many things to design various things. Life is an endless process of learning. 再び美術館へ。 住んでいる場所の関係で、 行くまでに時間がかかってしまいますが、 着いてしまえば後は楽しむだけ。 ほんの小一時間から、 一時間半程度で、 大体の展示は一通り見ることができます。 そして、 得られるものは、 とても大きい。 作者が何年、または、 何十年という想いを込めてつくった作品を、 たったそれだけの時間で満喫できるのですから、 これはやっぱりもっともっと見なければいけないな、 と感じるのでした。 「モノ」は力を持っています。 直接見ることによって、 いいえ、 直接見

『命と向き合うデザイン』 

 “覚え書”

I’d like to make clear the meaning these words someday. “いき(Iki)” ←→ “野暮(Yabo)” “侘(Wabi)” “寂(Sabi)” “粋(Sui)” ←→ “無粋(Busui)” “気障(Kiza)” どこかで整理したい言葉たち。 「いき」 ←→ 「野暮」 「侘」 「寂」 「粋」 ←→ 「無粋」 「気障」

『命と向き合うデザイン』 

 “江戸の華”

There is one sentence “喧譁は江戸の華”. 喧譁’s meaning is quarrel. But, this quarrel is not abusing. The real meaning is bluster out. We say “啖呵を切る” in the Edo Period Japanese. 啖呵を切る’s meaning is doing things that surprise the opponent. The action gets a lot of laughs by audience. Each blustering out is battle style of the Edo Period. The blustering out appears “pronouncing the concept”. 「喧譁は江戸の華」という言葉があります。 喧譁の意味を調べてみると、 どうやら「口喧譁」のようです。 しかし、 今の相手をただ罵倒するような、 口喧譁とは違い、 これが、所謂、 啖呵を切る、 というものだったようです。 啖呵とは、 維摩居士が、 十六羅漢や四大菩薩を閉口させた故事から来ており、 勢い鋭く歯切れの良い言葉。 江戸っ子弁でまくし立てること。 とのこと。 啖呵を切る、とは、 相手の意表を突く、 突拍子もないことを言って、 相手を笑いものにする、 というのが本来の意味のようです。 言い負けた方が、 喧譁に負ける、ということ。 啖呵を切る、とは、 「コンセプトを言い切る」 ことにもつながりそうです。

『命と向き合うデザイン』 

 “喧譁”

「喧譁」 I had thought-provoking event. “I thought good idea that is beautiful. Please make that.” If those wishes come true easily, our world overflows with beautiful design. Reality, however, is not that simple. I’d like to think the need of the battle. We say “喧嘩” in Japanese. 喧 means speaking a great deal. 嘩(譁) means speaking loudly. So, 喧譁’s meaning is quarrel. That’s meaning differ from my thought. 考えさせられることがありました。 「美しいモノを考えてみました。  だから、つくってください。」 と言ってつくれる世の中なら、 きっともっと美しいモノで溢れている。 でも、 なかなかそんな風には世の中はできてない。 「何故か」、という問いは一旦置いておいて、 「だから」、喧嘩が必要なのだとまず考えてみます。 「喧嘩」という言葉。 喧 「形声。  「口+音符宣」。  口々にしゃべる意。  歡(口々に喜ぶ)とも縁が近い。」 嘩(譁の異体字) 「形声。  華は「艸+垂+音符于」の会意兼形声文字で、  U型に咲く花を表すが、  ここでは、単なる音符にすぎない。  譁は「言+音符華」で、  わあわあと大声でやかましく言う声を表す擬声語」 喧譁とはそういうモノなのだろうか。 つまり、 ここで言う喧譁とは大声で騒ぐこと、 のように見えます。 「喧嘩は江戸の華」と言うくらいから、 そんな言葉だけで終わることなのか? と、疑問に思い、 ちょっと調べてみたところ、 面白くも納得できることが。