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『自己を見つめるデザイン』

 パターンの蓄積

最初は行き当たりばったりでつくっていても、 しばらくその状態が続くと、 ちょっと様子が変わってきます。 どう変わるか。 これは勿論、今だから客観視できることですが、 つくりためていく中で、 いくつかのパターンが、 頭、または見えるカタチで目の前に、 できてくるのです。 最も単純でわかりやすいことを例にとれば、 正方形の折り紙を斜めに折ると、 直角三角形になる。 誰でも知っていることです。 当たり前のことです。 それを少し発展させると、 斜めに二回折ると、 袋状にしてつぶすことができます。 (なんとなく想像がつきますでしょうか) 割り箸鉄砲で言うなら、 日本の割り箸の間に、 斜めに輪ゴムをかければ十字架にできます。 そのかけ方のバランスをかえれば 角度をつけることができます。 先に切り込みをつければ、 輪ゴムを引っかけることができます。 そんな風に、一つ一つは単純なコトですが、 そういったことが、 頭や目の前に パターンとして蓄積されるコトになります。

『自己を見つめるデザイン』

 遊びの中の微かな変化

そんなわけで(?)、 私の子どもの頃、 つまり、今から20年30年前などは、 所謂ゲーム機器で遊んでいても、 どこかで現実の「人」とつながっていました。 そして、私に関して言うならば、 ゲーム機器で遊ぶよりは、 外に出ていって、友達と遊んだり、 以前記したように、 ダンボールや割り箸といった、 当時何処にでもあったモノをつかって、 工作を楽しんでいました。 割り箸でゴムの鉄砲をつくるときや、 折り紙を折って何かをつくるとき、 ダンボールで家(小屋?)をつくるとき、 何れも、最初は行き当たりばったりです。 こうやったらどうなるだろう、 ここにこれをつけたらどうなるだろう、 と、文字通り、つくりながら考えています。 しかし、 今、その時の様子を思い起こしてみると、 その後、ちょっと違う方向に進んだように思えます。

『自己を見つめるデザイン』

 ゲームでは遊べども

今の子ども達へのゲームの影響云々、 という話をするつもりはありませんが、 私に関していうならば、 ゲームの世界に完全に没入することはないようです。 勿論、たまにやれば面白いのですが、 それよりも、現実の世界で遊んでいる方が、 遙かに多くのことを得ているように感じます。 もう良い年になった大人が「遊ぶ」などというと、 ちょっと変に聞こえますが、 小さい頃も同様で、 ゲーム機器を使って遊ぶことはあっても、 あくまでも「遊ぶ」といえば、 誰かの家にお邪魔したり、 数人で自転車でどこかまで行く、 ということが基本でした。 思い返してみると、 家の近所に一人、色々なゲーム機器を持っている子がいて、 その子の家に屯して、 みんなで話ながら、 ゲームをしながら、 というような時間の使い方だったように思います。 集まった面子で対戦ゲームなどをしたり、 誰かがゲームをしているのを何人かで眺めつつ、 全然関係ない話をして、といったような感じです。 あまり遊んだことがないのでわかりませんが、 今のネットワーク型のゲームも、 そういった使われ方をしているのでしょうか。

『自己を見つめるデザイン』

 ゲーム機器

今でこそ、私の周りには、 携帯電話であるiPhoneをはじめ、 MacBookやiPad、iPodなど、 様々(大分片寄りはありますが)な機器、 というか、遊び道具があります。 しかし、昔からそうだったのかと言えば、 そんなことはありません。 私が小学生になったころ、 丁度、初代ファミコン、 ファミリーコンピュータなるものが、 市場に出てきました。 そして、それからの数年間で、 実に多くの家庭に、 所謂「ゲーム機」が導入されることになりました。 一方、私の家にゲーム機が導入されたのは、 私が小学校の高学年の頃、 一番最初のゲームボーイ、という機器が出た頃です。 普通はそのままゲームの世界にはまっていく、 という展開なのでしょうが、 私の場合はどうもそうはならなかったようです。 親から「一日何時間まで」 などと言われるまでもなく、 それまで同様、外で友達と遊んだりしていたようです。

『自己を見つめるデザイン』

 当時の「空き地」

引っ越し後に出る、 大量のダンボールは良い遊び道具でした。 そして、それと同時に、 引っ越し先の家の近くに、 空き地や、資材置き場、 神社の敷地、など、 新しい「場所」を探すのも、 楽しみの一つでした。 小学校低学年の頃の記憶ですので、 極めて断片的でしか有りませんが、 所謂「探検」が好きだったのだと思います。 屋根がかかっているようなところを見つけ、 隠れられないか(何から?)試してみたり、 そこら辺に落ちているモノを被せて、 隠すことができないか(何から?)実験したり、 そんなことをやっていました。 勿論、そんなことをやっていれば、 怪我をします。 ダンボールを切るときに手を切ったり、 何かの間に挟んだり、 本当に良く怪我をしたと思います。 例えば、小学生の頃、 大きな石材を扱っている資材置き場で、 石をどけて空間をつくろうとしていたとき、 うっかり、 左手の人差し指を石と石の間に挟んでしまいました。 痛いのなんのって、もう、本当に、 必死に泣くのをこらえながら家に帰りましたが、 その日の夜、お風呂に入っているとき、 手をお湯に沈めると同時に、 爪がプカァ〜と浮いたのを覚えています。

『自己を見つめるデザイン』

 引っ越し後に残るモノ

私は小さい頃、 工作などをとても好きでした。 と、言っても、 比較対象がないため、何と比べて好きだったのか、 絶対的指標がないため、どの程度好きだったのか、 説明するのは困難ですが。 例えば、 紙があれば正方形にして折り紙をし、 割り箸があれば輪ゴムピストルをつくり、 ダンボールがあれば小さな家をつくり、 空き地に材木置き場があれば秘密基地をつくり・・・ 今考えてみれば、あの頃の方が 余程自由に創作活動を行っていました。 別に自由があった、ということではなく、 何も考えずに、 本当にただつくりたくてつくっていました。 逆に言えば、何も考えていなかったから、 身体が動いていたのかも知れません。 そんな私にとって、 転勤族、というのは ちょっと嬉しいことでもありました。 勿論慣れ親しんだ場所を離れ、 友達とも会えなくなるのは寂しいことでしたが、 引っ越し後に出る大量のダンボールは、 私にとっては絶好の遊び道具だったと、 記憶しています。 大きめのダンボールを選び、 それを家と仮定します。 中に2階をつくり、 ドアを開け、 窓を開け、 家具をつくり、 そして、 豆電球の照明を入れる。 自分が入るサイズの家をつくるのは、 当時のサイズでも困難でしたが、 何とかやっていました。

『自己を見つめるデザイン』

 ダンボールハウス

できると思っていても意外とできない。 様々な場面で多く人のが体験することだと思います。 絵には描けたけど、 実際につくってみようとすると難しい。 例えば、昨年見学させていただいた授業の中に、 ダンボールで家をつくる、というものがありました。 つくる前にグループ毎に完成予想図を描かせ、 今度はそれを実際につくってみる、 というものです。 これがとても難しい。 何が難しいかというと、 完成予想図のようにできない。 なぜできないか? 例えば、 壁が立たない。 天井が乗らない。 入り口を開けられない。 人が生活できるだけの空間をつくることは、 意外と骨の折れる作業です。 屋外でつくったわけではないので、 自然の猛威に曝されることはありませんでしたが、 平らな場所にただ建てるだけ、 にも関わらず、 その「ただ建てる」ということが 本当に難しいようでした。

『自己を見つめるデザイン』

 価値あるできそうなこと

「できそうなこと」をすれば、 想像と創造のギャップを埋めることができる。 この「できそうなこと」も、 例えばデザインで言うならば、 経験や知識が豊富なデザイナーが考える 「できそうなこと」であれば、 多くの場合、新規性を持っており、 非常に飛躍的な創造性が望めます。 そのため、 安全策というような案であっても、 優れたデザイナーが考えた案は、 社会的に大きな価値を持っていると言えます。 ただ、 デザイナー本人にとっては あくまでも安全策なので、 多くの場合、苦肉の策と言えるものかも知れませんが。 では、優れたデザイナー以外の場合はどうでしょうか。 つまり、優れたデザイナーと呼ばれる人は、 ごくごく僅かな限られた人達です。 それ以外の多くの人達は、 新規性に乏しい「できそうなこと」しか、 想像して創造できないコトになります。 それではなかなか良い製品を商品化できません。

『自己を見つめるデザイン』

 できそうなこと、とは

想像と創造の間を埋めるためには、 いくつかの方法があります。 最も簡単なことは、 創造できそうなことを想像すること。 つまり、できそうなことを考えること。 要は、新規性を求めず、 石橋を叩いて渡るような案を考える事です。 この場合、勿論、飛躍的な創造性は期待できません。 というよりも、 飛躍的な創造性を期待しないことが大前提です。 安全策と呼ばれ、 落としどころ、 とも言われます。 このように表現すると、 とてもつまらないアイディアのように見えますが、 逆に言えば、 失敗をしづらい、という点で価値を持っています。 では、そもそも、 「できそうなこと」とはどういうことか。 この「できそうなこと」自体が、 人によって違うのです。 ある人にとっては「できそうなこと」でも、 別の人にとっては困難だと思える場合があります。 同様にその逆もあります。 つまり、 個々人によって非常に差異性がある事柄です。 その差異性は経験や知識に依拠しています。

『自己を見つめるデザイン』

 計画と実行

企業は、ギリギリのモノを狙っていきます。 実現できるかどうか、ギリギリのところ。 容易であれば売れませんし、 困難であれば実現できません。 様々な捉え方ができることですが、 その一つにあるのは、 計画と実行の連続性に関する問題です。 簡単に言えば、 考えたモノをそのままつくるのは、 意外と容易ではない、ということ。 勿論、容易なモノをつくるのであれば、 特に問題になることもありませんが、 新しいモノをつくったりする場合には、 常につきまとうことです。 想像と創造のギャップとも言えます。 デザインとは、新しいモノを生み出す行為です。 この想像と創造のギャップを減らすことは、 デザイナーとして必須な訓練の一つです。

『自己を見つめるデザイン』

 ギリギリを狙う

全く新しいことを考えるのは、 容易なことではありません。 一口に新しいこと、と言っても、 色々なレベルがあります。 突拍子もないことを思いつくのは難しいことですが、 同様に、 ギリギリできそうなこと、を考える事も、 実は難しいモノです。 できるかできないか、 ギリギリのところ。 実際に企業などで働いているときは、 そこをうまく狙っていくことが重要です。 簡単に実現できるモノは、価値が低く見られます。 つまり商品として売り出しても、 新規性が乏しく購買意欲を刺激しづらい。 しかし、逆に、 あまりにも実現が困難なモノも、 勿論、企業としては価値が低く見られます。 つくることが難しい、ということはつまり、 つくるためには過剰なコストが必要になる、 とも言えることが多いためです。 どんなに沢山売れても、 製造自体にコストがかかるようでは、 儲けは少なくなってしまいます。 そういう点から、 どのようにギリギリのところを狙っていくかが、 とても重要なのです。

『自己を見つめるデザイン』

 世界という劇場の中で

歴史とはつまり、 過去における、 ・ヒトのつながり ・コトのつながり ・モノのつながり そして、 これらの掛け合わせを学ぶこと、 と考えます。 つながりであるが故に、 それは「今」に至るまでつながってきます。 以前記した言葉で言うならば、 それはcontextと言えます。 劇場とは、 「時間と空間をcontextとして、  行われる行為をcontentsとしたとき、  演ずる側と観る側が  同じcontextを共有することで、  contentsの価値が明確になる。」 と書きました。 この世界を一つの劇場と捉えるならば、 全てのヒト・コト・モノは、 様々なcontextにのって変化しうる、 contentsと言えます。 自分自身を一つのcontentsとして、 どのcontextの中にいるのか、 そして、 そのcontextは果たしてどこへ向かうのか、 それを常に考えなければいけません。

『自己を見つめるデザイン』

 過去から学ぶ

この地に来て、学んでいることの中に、 過去から学ぶ、というものがあります。 以前、既に亡くなった人から学ぶ、 つまり、本を読むということを教わりました。 今、この地に来て、過去、そのものから、 多くのことを学んでいます。 かつてあったこと、 かつて行われたこと、 かつて言われたこと、 簡単にいってしまえば、 歴史から学ぶ、などと言われますが、 では、歴史から学ぶとはなんなのでしょうか。 私はそれを、 ・知識獲得 ・未来予測 と考えます。 前者は文字通り学ぶこと、ですが、 寧ろ、後者の方が重要なのではないでしょうか。 これは、 歴史は繰り返すという意味ではありません。 物質的な事から、 思考的な事まで含め、 過去を知ることは、 未来を予測することにつながるのだと考えます。

『自己を見つめるデザイン』

 水に浸かっている時間

お風呂がとても好きです。 清潔にしておきたい、という、 国際的な視点ではなく、 温まりたい、という、 極めて日本的な意味で好きなのだと思います。 本来なら毎日溜める入りたいところですが、 なかなかそうもいかないので、 多くの場合、シャワーだけになってしまいます。 実家の最寄りも大きな方の駅は、 駅名に「温泉」と入っているくらいですので、 所謂昔で言うところの温泉街です。 小さい頃は家の近所にも温泉があり、 結構な頻度で入りに行っていたと思います。 今いるところも、近くに温泉があり、 以前から誘われてはいたのですが なかなかタイミングが合わず、 今日、たまたま行くことができました。 私は、夏になると、 プールや海に行くのが好きです。 水に浸かっている、という状態が好きなのかどうか、 正直よくわからないのですが、 とにかく好きです。 別に、母なる海に抱かれて、 などというつもりは毛頭なく、 本当になぜなのかわからないのですが、 私にとっての「水に浸かっている時間」は、 何か特別な意味があるようです。

『自己を見つめるデザイン』

 作品を眺める時間

数は多くありませんが、 県内のいくつかの大学や高等学校の 卒業制作展などを見ています。 今週から来月頭にかけて行われるようです。 私たちの卒業制作展は、 学内の施設の中で行われました。 外部の施設ではなかったわけですし、 今考えてみれば、広報もどの程度だったのかわかりませんが、 私自身は、そこでもプレゼン同様に好き勝手にやらせてもらい、 とても満足していたことを覚えています。 (本当に勝手な話で申し訳ないですが) 今日は3つの大学の作品展を拝見しましたが、 皆、どんな気持ちで展示しているのかな、 ということが気になりました。 プレゼンテーションでは、 自分の作品は兎に角褒めなければならない、 そう教わりました。 自分のモノが最高なのだと、 観客に対して示さなければいけない。 学生達は、みんな、各自、 その意識で向かうことができただろうか、 と考えさせられました。

『自己を見つめるデザイン』

 時間の持つ一つの価値

私にとって、大学時代は掛け替えのないものでした。 その時間があったからこそ、 今の自分があることは間違いありません。 その時間があったからこそ、 今の自分がある。 これは当たり前の事です。 今まで自分が経験してきた全てのことが、 今の自分を形成する要素であり要因になっています。 だからこそ、 自分が様々なことを選択し、 実行していくのか、考えなければいけません。 今の行為が何につながるのか、 常にそれを意識することは容易ではありませんし、 想像しきれることでもありません。 しかし、 それを常に考えながら自らの行動を決めていくことは、 必ず、将来の自分自身につながっていきます。

『自己を見つめるデザイン』

 吹奏楽とオーケストラ

大学でオーケストラに出逢ったのは運命、 などと言ってみても、 何か大層なことがあったわけではありません。 ただ、実は、中学校の頃、吹奏楽部にいた頃に、 「いつかチャンスがあったらオーケストラに入りたい。」 と考える切っ掛けになるお話しを聞きました。 以降の文は、あくまでも私の主観に依るものですので、 一般的かどうかはわかりませんのでご了承ください。 私の演奏している楽器はFrench Hornと呼ばれるモノです。 蝸牛のようにクルクルと巻かれていて、 ベル、と呼ばれる音を出す部分に手を入れ、 後ろ向きに構えているような楽器です。 この楽器、吹奏楽における演奏内容は、 伴奏であったり、裏打ちと呼ばれる、 リズムセクションであったり、 所謂、裏方さんのような役割が大変多いのです。 しかし、私自身、 特にそれが嫌、と思ったこともなかったのですが、 ある時、部活の顧問の先生から、 「もし、この先楽器を続けていって、  チャンスがあるようなら、  一度オーケストラで演奏してみると良いかもね。」 と言われていたのです。 なぜ、そう言われたのか、 オーケストラで演奏してみると、すぐにわかりました。 French Hornのオーケストラにおける演奏内容は、 というか、その立場は、 所謂、花形楽器、と呼ばれるものでした。 (因みに念のために言っておきますと、  花形楽器をOboeとする人もいますので、  何かで定義されているわけではありません) 何が花形か。 とにかく旋律が多い。 美味しいところでソロがある。 弦楽器とも金管楽器とも木管楽器とも打楽器とも 一緒に演奏する。 まぁ、何を言っても、とにかく、 美味しい役割であることが多いのです。 ということで、裏方だった立場から一転、 花形楽器という立場になり、 これまでとはまるで違った演奏をするコトになりました。

『自己を見つめるデザイン』

 時間に纏わる部活動

時間、 という意味では、 私は、非常に時間と関係の深い部活を、 中学校から修士までの約12年間続けていました。 それは、楽器を演奏する、というものです。 中学校から高校までの6年間は吹奏楽を、 その後、入った大学には吹奏楽はありませんでしたが、 その代わりにオーケストラがありました。 実は、高校の部活に関して言えば、 その高校の吹奏楽に入りたい、という理由だけで 志望校を決定していました。 幸い進学校だったため、学業も頑張ることになりましたが、 後から聞いた話では、志望していた当時の私のが学力は、 その高校に受かるギリギリだったそうです。 しかし、私の頭の中はそこに入って部活をすることで一杯。 その甲斐あってかはわかりませんが、 合格することができました。 そんな高校生活だったため、 正直、大学では部活はする予定がなく、 同時に吹奏楽もなかったため、 ここまでかな、と思っていました。 そんなときに、管弦楽団、の文字が目に入ったのです。 「あぁ、オーケストラかぁ。  これはもしかしたら運命なのかなぁ。」 と、思い、入部することにしました。

『自己を見つめるデザイン』

 学生時代の二つの時間

その時その時の時事などを絡めつつ、 時間に関して考えています。 マクロな時間の考え方として、 大学時代を考えてみます。 自分の大学生活は大きく二つの時間で構成されていました。 ・学部 ・部活 多くの学生がそうだとは思うのですが、 私の場合は、ほぼ全ての時間がこの二つのどちらかでした。 今考えてみるとどうかとも思いますが、 日中は学部の方で制作などを行い、 夕方から夜くらいになると、 自転車で30分ほどかかる部室に移動し、 部活の練習をしました。 その後、また夜更けになってからは、 学部の方に戻り、 引き続き、制作を行いました。 もちろん、毎日がそうだったわけではないので、 その合間合間で遊んだりもしましたが、 ほとんどの時間は上述のどちらかだったと思います。 普通に考えたらバカみたいな生活かも知れません。 もっと楽しいことが色々あっただろうに、 とも言われそうです。 しかし、私に言わせてもらえば、 学生のうちでなければ、 こういうことはできなかったろうなと、 逆に思ったりもします。

『自己を見つめるデザイン』

 Twitterのウソと本当

今日のニュースに、 Twitterにはウソの拡大を招く危険性がある、 という内容のものがあり、 Twitterの善し悪しを問うような記事がありました。 どうなのでしょうか。 個人が自由に発言できると、 ウソが蔓延するのでしょうか。 昨年の東日本大震災の折、 悪意あるTwitterが広まったことを書きましたが、 結局のところ、 ウソをつくか本音で話すか、 それはその人に依拠する事柄であり、 ツールとしての技術には何も関係もありません。 全く関係ない、と言っては語弊がありますが、 Twitterに関して言うならば、 ツールによってウソが助長されるとは思えません。 にも関わらず、 Twitterそのモノが悪である、とするのは、 些か早計ではないかと思われます。 人間は、信じたいモノを信じるそうです。 つまり、信じたくないことはウソになるし、 信じたいことは本当になります。 これだけを考えると、 内容で全て決まりそうに見えますが、 Twitterに関して言うならば、 情報発信者と、 情報内容の、 双方が、 自分にとってどんな意味を持っているか、 ということに関係します。 情報発信者が自分が信頼している人である場合、 情報内容がどのようなモノであっても、 それはその人にとって「本当」になるでしょう。 ところが、 情報内容が自分が信じたいモノだったとしても、 情報発信者に対する信頼感が乏しい場合、 その内容を容易に信じることはできません。 多くの場合、Twitterで自分がフォローしている相手は、 自分が信頼を寄せている人である場合が多いため、 その発言も信じられるはずです。 しかし、 そこで混乱を招く元になっているのが「RT」の存在です。 どこをどう巡ってきたかわからないRTは、 判断を鈍らせます。 更に、 それが例えば助けを求めるようなものであった場合、 ウソかも知れないと感じても、 本当で会った場合を考えると、 拡散しないわけにはいかなくなります。 これは、Twitterが悪だと言えるのでしょうか。

『自己を見つめるデザイン』

 L-L-T Cylinder 3

悔しさ。 「悔」という漢字の意味理解は、 また日を改めるとして、 卒業制作に纏わる話しから展開しての 悔しさです。 卒業制作に関してだけでなく、 いつも感じさせられる感覚ですが、 自分が知らなかった、 考えなかった、 気が付かなかった、 わからなかった、 思い至らなかった。 そういったことを感じるとき、 悔しさを覚えます。 知識が足りず、 熟考が足りず、 アンテナが足りず、 理解が足りず、 思いが足りない。 それが「悔しさ」という感情につながり、 悔しくなります。 負けず嫌いというものなのか、なんなのか。 その感覚を遠ざけるように生きていく、 つまり、 知識を得、 熟考し、 アンテナをはり、 理解力を高め、 強く思う。 一つひとつの経験から、 それを学ばせていただいています。

『自己を見つめるデザイン』

 L-L-T Cylinder 2

卒業制作についてもう少しの続きをもう少しだけ。 さて、 アクリルパイプで制作した4本のスピーカーセット、 透明では具合が悪くなったため、 内側を綺麗に目隠しする方法を考えました。 しかし、 折角の透明感のある印象や、 表面の平滑な印象はそのまま残したいと考えると、 内側に何らかの処理をするしかありません。 1200mmという長さを考えると、 塗装する、というのも自分の能力では現実味がない。 様々に試行錯誤・試作制作を繰り返しましたが、 決定的なアイディアが見つかりませんでした。 そんな中、ご相談すると、 一発で明確なお答えが。 金属の薄い板を丸めて、 アクリルパイプの中入れ、 目隠ししたい場所で離してみろ。 本当に一発です。 見事にピタッとおさまりました。 こんな方法、 インターネットになんか載っていません。 辞書にも参考書にも載っていません。 でも、本当に必要なのは、 こういった「情報」なのだと、 思い知らされました。

『自己を見つめるデザイン』

 Twitterという主観性

ここ数日、こちらはドカ雪の日々です。 以前、記したように、 雪が降ったら只管雪掻き。 生きていくために必要な行為です。 しかし、一方で、私のTwitterのTL上には、 その雪に触れて喜ぶ声が。 雪がうっすらと積もったシーンを 写真で写して載せていたり、 もっと降れ〜、とつぶやいていたり。 色々なTwitterが流れて行きました。 ここで、記したいのは、 雪とはそういうものじゃない! というようなことでは、全くなく、 Twitterとは、 一般の人が使用する上では、 極めて主観性を重んじるメディアである、 という認識についてです。 それは匿名性だから、 ということでもないように思います。 匿名性とはいえ、 一般の人が使用する上ではフォロワーの多くは、 自分の実態(変な表現ですが)を知っているため、 これまでのBBCのような 無責任さが少なくなります。 そういった点で、Twitterの内容は、 所謂「心の声」のような、 純粋な発言だと言えるのかもしれません。 もしかしたらTwitterとは、 喜怒哀楽を的確に表出させる メディアと呼べるのかもしれません。

『自己を見つめるデザイン』

 "一つの美に触れて"

一面、白銀の世界。 今朝、大学に向かう最後のカーブを曲がると、 文字通り、白銀の世界になりました。 道も見えず、 僅かにわかるのは数メートル先まで見える轍のみ。 その瞬間、驚きや恐怖よりも先に、 美しい! と感じてしまった私は、 いつか危険なことになってしまいそうです。 テンションは一気に上がりつつも、 抑えめの速度で真っ直ぐ進んで行きました。 すると、白い壁をすり抜けるように、 奥にある山肌が少しずつ少しずつ見えてきました。 その現れ方、 現れる速度、 色合い、 震動、 音、 一切が美しく、 吸い込まれるような感覚に陥りました。 今朝ほどの大雪でなければ、 一度バックで無理矢理戻り、 携帯のムービーで録画したいと思うような、 まるで映画に出てくるよな、 そんなワンシーンでした。 こちらに来てから、 本当に沢山の自然に触れています。 特に冬になってからは、 改めて自然の脅威を感じたりもしています。 しかし、 今朝、見た、感じた、あの美しさは多分、 ずっと記憶の中に残るのだと思います。 説明や言い訳の必要がない、 そんな美しさを、久々に感じることができました。

『自己を見つめるデザイン』

 L-L-T Cylinder 1

卒業制作についてもう少し。 私が制作したのはスピーカーセットと記しましたが、 正確には4つの円筒形のスピーカーです。 所謂、無方向型と呼ばれるもので、 音が出るスピーカーは、 エンクロージャーに 直径100mm、長さ1200mmの円筒形のアクリルパイプを用いました。 それを立てた状態にし、 上面の開口部にスポッおさまるように、 フルレンジスピーカーユニットを取り付けていました。 エンクロージャーの素材がアクリルということもあり、 当初は透明なモノを想定していましたが、 実際に音を出してみるとそれほど良くはなく、 やはり減衰させる必要があるため、 内部にスポンジを設置することになりました。 しかし、その場合、一体どうやって円筒形の内面を見えなくするか。 それが悩みの種でした。