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『哀しみのデザイン』   

 正眼の構え

2009年の終わりに、 眼前に突きつけられたことは、 何が医学か、 何が命と向き合うデザインか、 という、心構えです 赤ん坊として生まれ、 大人になり、 やがて、老人となって死んでいく その自然の摂理の中で、 デザインがなすべきことは何か できること、 やるべきこと、 それを、見極めなければなりません 肉体を生かせる医学の進化と共に、 成長しなければいけないことがあります かつて、人生は50年でした 毎年、平均寿命はのび続けています それに対応するだけの、 社会と人心が必要です それらを統合し、推進できるのは、 唯一つ、デザインだけです 正眼の構えを持って、 「哀しみのデザイン」から、 「命と向き合うデザイン」へと向かう、 一筋の道を見極め、 辿っていかなければなりません

『哀しみのデザイン』   

 選べること

どうやって生まれて、 どうやって死ぬのか、 人は選べません でも、 どうやって生きるかは、 選ぶことができます そのためには、 精一杯、生きなければいけない

『哀しみのデザイン』   

 整理する

「内容」が生まれ、 それに「形式」を与えることで、 人は物事に整理を付けていく 一度形式が与えられると 類似の内容に対しては その形式が適用される そして、いつしか、 全ての事象(内容)は、 無理矢理にでも 何らかの枠(形式)に入れられてしまい、 それでも入れられないものは、 存在しないものと見做される

『哀しみのデザイン』   

 チの連鎖

「形あるものいつかは壊れる」 この言葉が物語っていることは 「万物はいつか壊れてしまう運命にある」 ということではないのでしょう 「形はいつか壊れてしまうかもしれないが、  気持ちは壊れずに残っていく」 ということを言いたかった言葉なのでしょう デザインは、 カタチをつくることで キモチを動かし、 イノチを繋いでいく行為です。

『哀しみのデザイン』   

 形から入る

形から入る すると中身が整う 更に、形を整える 形式をそろえることによって 内容がついてくる すると、それによって また、形式が益々そのようになってくる 同じ教えがここにもあった

『哀しみのデザイン』   

 哀しいとは

自然に涙が出て来る 哀しいから泣くのではない 泣くから哀しいのである、なのか? 形式に泣いているのか 形式に哀しんでいるのか そうではないのでしょう 自然に心が動く そういうものなのでしょう

『命と向き合うデザイン』 

 「a」のための「a」

しかし、努力は必要なのだと思います。 そして、多分、本当に努力している人は、 その瞬間に「私、今、努力している!」などと、 考えている余裕はないのでしょう。 後から、もしかしたら何十年も経ってから、 「あの時、私は努力をしていたんだな」と、 客観的に見ることはあるのかも知れません。 そして、そう思える現在を獲得しているということは、 結果としてその努力は、 良い結果を生んでいるのだと思います。 では、 「努力したのに報われなかった!」という発想は どうして発生するのでしょうか。 これは、よく言われることですが、 所謂目的のすり替わりによるものです。 元々「A」というモノをつくるために行っていた、 「a」という手段。 これが、 「a」に集中するあまり、 気がついたら、 「a」のために「a」をすることになっている。 という経験は、 多くの方がお持ちなのではないでしょうか。 目的と手段がすり替わってしまっています。 これが、デザインで発生すると問題です。 というよりも、デザインで発生すると質が悪く、 より一層、デザインへの理解を 遠ざける結果になっていると思います。

『命と向き合うデザイン』 

 「手械」から

「械」とは『漢字源』(学習研究社/藤堂明保)によると、 「罪人の手足に嵌めて行動の自由を奪って戒める刑具」。 戒は「戈+両手」の会意文字で、 両手で武器を持った状態です。 「木+音符戒」より、手足を戒める木製の刑具となります。 「幸」 「報」の字の部首である 「幸」 も、 実は同様の意味から生まれています。 「手に嵌める手械を描いたもので、元々、手械の意。  手械を嵌められる危険を、危うく逃れたこと。  幸とは、元々、刑や型と同形の言葉で、  報(仕返しの罰)や執(捕まえる)の字に含まれる。  幸福の幸は、その範囲がやや広がったもの」 「刑」とは、 「左側のかたちは元々、井。  井(ケイ)は、四角い枠を示す。  刑は「刀+音符井」。  枠の中へ閉じ込める意を含み、  刀で体刑を加えて懲らしめる意を示す。」 「型」とは、 「刑から、「土+音符刑」で、  砂や粘土でつくった鋳型のこと。」 「幸」という漢字の、 元々の意味が後ろ向きなのは悲しいですが、 実際、では何が幸せなのか、 といわれれば難しいところです。 冒頭に戻って「械」の字ですが、 こちらは勿論 「機械」 の械です。 機械は、人の様々な行動を 助けてくれると思われていますが、 実際は手械になっているのかもしれません。 私たちは「機器」という言葉を使います。

『命と向き合うデザイン』 

 「報」とは

努力したら報われる、 という袋小路な思想の話をしました。 「報」 「報」とは『漢字源』(学習研究社/藤堂明保)によると、 「手械の形+跪いた人+手」で、 罪人を手で捕まえて座らせ、 手械を嵌めて、 罪に相当する仕返しを与える意を表す、とのこと。 これが「報いた」状態ですので、 「報われる」は受け身になります。 即ち、自らが仕返しを受ける、が本来の意です。 ・・・勿論、現在はお返しを受ける、 という反転した意味になっていますが。 更に、「努」とは同じく『漢字源』によると、 「力+奴(音符):粘り強い女奴隷」で、 粘り強く力を入れる意、とのこと。 つまり、元来の意味で言えば、 「粘り強い女奴隷(勿論手械付き)が、  力を入れ続けた結果、  跪かされ、  罪に相当する仕返しを受ける」となります。 これが「努力したら報われる」ということです。

『命と向き合うデザイン』 

 無意味な袋小路

「がんばる」「努力する」という言葉を、 自分に向けて使うことが嫌いです。 勿論、 がんばらない、努力しないという意味では、 ありません。 ただそれは、目的になり得ないことだと、 認識しているからです。 これが目的になってしまうと、 「あんなにがんばったのに・・・」 「あんなに努力したのに・・・」 という言葉が生まれてきます。 で、結果、 「がんばりが足りなかった」 「努力が足りなかった」という 訳の分からない袋小路に閉じこもります。 がんばったらできる。 努力したら報われる。 そんなことはありません。 それとこれとはお話が違います。 ある「目的」を持って「行動」するとき、 選択された「行動」と「がんばる」「努力する」は、 全く別次元の事柄です。 自分自身に対してはそう思っていても、 何かを成そうと臨んでいる人に対しては、 「がんばれ!」といつも言ってしまう自分がいます。

『命と向き合うデザイン』 

 才能よりもすごいこと

10年以上前、 ある人と話をする機会をいただき、 実家の帰ったときに、 その人を訪ねたことがありました。 お忙しかったはずなのに、 とてもお時間を取っていただき、 デザインに関する色々なお話を聞きました。 その中で印象に残っていることの一つに、 「あいつは確かに当時からすごかった。  才能があったのは間違いない。  でも、あいつの本当にすごいところは、  それ以上に誰よりも努力をしていたことだ。」 という言葉がありました。 当時の私には、 まだその言葉の真意はわかっていませんでした。 今なら、その言葉の真意、 そして、その言葉を言われた方の心の強さが、 わかるようになりました。

『命と向き合うデザイン』 

 不器用な手品師

20年以上前、 たまたま見ていた番組で 手品師の人が話していました。 アナウンサーからの、 「やっぱり小さい頃から手が器用だったんですか?」 という問いかけに、 「小さい頃はメチャクチャ不器用でした。  でもね、不器用なやつほど、  必死になって練習するんですよ。  だから、  気がついたら自分が一番うまくなっていた。」 と答えていました。 私にとってはとても心に残る会話でした。 勿論、それが本当かどうか、 大人になってからは疑問に思いましたが、 当時の私は信じていました。 そして、今でも信じています。 勿論、それを実現するためには、 「必死になって練習」しなければいけない。 只管に。

『命と向き合うデザイン』 

 見えない欲望

実際、自分が本当に欲しいものを わかっている人は、どのくらいいるのでしょうか。 ウォンツの難しさはそこにあります。 「収集することによって、  自分に不足しているものがわかる」、 という言葉があるように、 自分が本当に求めているモノを、 常に言葉にして表現できる人は 少ないのではないでしょうか。 これは、自分が欲しいと思っていたものを いざ、眼の前に出されると そこまで欲しくなくなる真理に、 繋がります。 「期待通りのモノ」、では、人は満足できません。 「期待以上のモノ」、で、初めて、 「欲しい!」と思わせることができるのであり、 そこにデザインの存在価値の一部が生まれます。 期待通りのモノをつくるのに、 デザインの力は必要ありません。 それは期待(ニーズ)を集約すれば良いからです。 期待以上(ウォンツ)を実体化するために、 デザインは必要です。

『命と向き合うデザイン』 

 客観性の喪失

多くの人に尋ねることは、 保険になると信じられています。 「こんなに沢山の人が、  『こういうモノ』が欲しい、って言っているから  こういうモノをつくりましょう。」 主体を自分ではない「誰か」にすることで、 客観性を語ろうとします。 多くの人を含むように見える「誰か」は、 結局、誰のことも含まない「何か」となり、 観測者がいなくなることによって、 客観性は喪失します。 しかも、こういうことを言う人に限って、 『こういうモノ』ができても、 自分は買わなかったりします。 「あ、私は今ので満足しているから。  これ、まだ使えるから勿体ないよね。」 また、 「『こういうモノ』が欲しい」と答えていたからといって、 本当にそれが目の前に現れたときに、 素直に買ってくれるほど、 人間はシンプルなのでしょうか。

『命と向き合うデザイン』 

 永遠に失う刃

以前、 ニーズとウォンツの話 をしました。 本当につくらなければいけないモノは、 誰かに尋ねても出てきません。 それにも関わらず、 一般的に、多くの人に尋ねてつくったモノは、 「良いモノ」と考えられている節があります。 勿論、悪いモノにはならないことが多いのでしょうが、 それは「一番優れたモノ」にはなりません。 尋ねるという行為は諸刃です。 尋ねることによって、 「気付かなかったことに 気付かされる」ことはあります。 これは蓄えるという意味で 大変大きな意味があります。 また、尋ねることによって、 「気付かなかったことに 気付く機会を永遠に失う」ことになります。 これは気付くまでの過程の中で得られたはずのものも、 得る機会を失うことになります。

『命と向き合うデザイン』 

 形式と内容

形式とは、 内容に至るために最低限満たされているべきものです。 形式は内容の必要条件であり、 内容のみが「良い」ということは、有り得ません。 あくまでも形式をクリアした上で内容が吟味されます。 形式は必ず内容を含みます。 また、内容は形式を含むことができます。 エキスパートと呼ばれる人は、 その領域の形式を完全に把握しています。 その上で、 優れた内容を必然として生み出すことができます。

『命と向き合うデザイン』 

 命と向き合うとは、つまり

何事も、 活用する目的を持って蓄えることは大切です。 自分がデザインすることを考えてモノを見る。 情報を得る。 「あ、綺麗なカップ。」・・・で終わるのではなく、 「あ、綺麗なカップ。自分だったらこんなのをつくりたいな」と、 考える。 今まではこれで良かったのです。 しかし、ここで、タイトルに戻ります。 「命と向き合うデザイン」。 「全てデザイン対象は命を向き合ってなければならない」、 という意志をここにつなげることが難しかった。 色々なものをデザインしたいな、 でも、これは命と向き合っていないな、 これも命とは向き合っていないな、 ・・・。 そうなったとき、ここで、 諦める ことが必要だったのです。 他のモノをつくってみたい、 考えてみたい、という思いを諦めて、 命と向き合っているモノに、 デザインをつぎ込む。 デザインに注ぎ込む。 今からどれだけ自分に時間があるのかなんて、 誰にもわかりません。 大体、誰にどれだけの時間があるのかなんて、 誰にもわかりません。 だとしたら、少なくとも、今という瞬間に、 命と向き合ったデザインを考えられることは、 とてもとても大切なコトなのだと思います。 私のことをよく知る人からいつも言われることは、 「お前は頭が堅い!」 そうなのだと思います。 こんな風に考えなくても、 きっと器用にやっていく人は沢山いるのだと思います。 それでも、自分の心と対話をし、 偽らざる思いでモノづくりに向かうことが、 何よりも大切なことだと思い、 それを教えられて来たと思っています。 この考えに至った時、 頭がクリアになりました。

『命と向き合うデザイン』 

 蓄える目的

蓄える行為はずっと続きます。 死ぬまで続くのだと思います。 死ぬまで続けたいと今は思っています。 死ぬまで続ける意味があるのだと思い続けたいです。 その過程で、 何かを、 思い付いて、 思い込んで、 思い遣りをもって、 デザインしていく。 そのためには、蓄えるだけではダメです。 食料だって、食べるために蓄えます。 お金だって、使うために蓄えます。 どこかでそれが狂ってくると、 蓄えるために蓄えることになります。 これは、本末転倒なだけでなく、 蓄え方に違いが出てきます。 活用する目的があって蓄えられたモノは、 引き出しやすくなっているものです。 タグが明確に付いているからです。 因みに、趣味で集めているモノは、 蓄えるために蓄えても良いのです。 誰にも迷惑が懸からなければ。

『命と向き合うデザイン』 

 器用・不器用

本当の器用と不器用とはどういうものか。 それは自分の知識・知恵を使いこなせるかどうか、 ではないかと思います。 重いデータは、 沢山の情報が詰まっていて、 とっても重要。 でも、開きにくい。 →開きたくなくなる。 →瞬発力も乏しい。 →使われなくなる。 ⇔でもでもやっぱり重要なことが沢山入ってるの・・・ 軽いデータは、 情報量はそこそこ。 重要度もそこそこ。 でも、開きやすい →結構頻繁に開かれる。 →瞬発力もある。 →どんどん使われる。 ⇔でもやっぱり品質はそこそこ・・・ つまり、やっぱり、 重いデータをさくさく扱える、 そんな器用さが大切なのだと思います。 結局は頭の良さ、なのかも知れませんが、 それだけでもないと思います。 「 器 用」とはつまり食べていける能力です。 そのために蓄え方を考えます。

『命と向き合うデザイン』 

 創造論という考え方

今つくれるモノを、今つくることは重要です。 しかし、今つくれるかどうかわからないものを 未来に向けてつくろうとすることも とても大切なことです。 今まだ存在していないモノは、 連続した思考の中で生まれてくることもあれば、 飛躍した思考の中で生まれてくることもあります。 いずれも、 「思い付き」 と呼ばれるものです。 新商品のアイデアを出すことを目的として書かれている 「発想法」のような本を最近はよく見かけますが、 「創造論」として以前から書き残された本もあります。 創造論のいくつか読んでみると、多くの場合、 「全く異なるものの同定によって、 新しい発想が生まれた」というような記述があります。 では、手当たり次第、なんでもくっつければ良いか、 といえば、そういうことではないようです。 沢山のモノを見て、聴いて、 これまで自分の中に蓄えたモノの中から、 ある瞬間、自然と新しい発想が生まれる、 というものらしく、 ここでも蓄えることの重要性が語られています。

『命と向き合うデザイン』 

 見ること聴くこと

小林秀雄さんの本を読んでいるときに、 こんな言葉にぶつかりました。 「目を慣らすことが第一だというのです。  頭を働かすより、  目を働かすことが大事だと言うのです。」 先日書いたことと似ています。 見ることや聴くことも、 考えることと同じように、 努力を要すること。 兎に角たくさんのモノを見て、聴いて、 まずは入れていくことが大事だということ。 様々な情報が簡単に入り、 見ることも聴くことも容易になっています。 しかし、 それらを努力して行うことで、 彼のあの有名な言葉に辿り着きます。

『命と向き合うデザイン』 

 "iPhoneアプリ"

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Golden Ratio Calculator 大切なことは、 黄金比を使ってモノをつくることではなく、 つくり上げた結果が黄金比になっている、 というところまで、 自分の感覚を磨き上げることである。 そんな自分をサポートしてくれる、 とっても役に立つアプリケーションが、 iPhoneアプリとして新発売! Peace-Keeping Design(PKD) という活動があります。 デザインの手法論にもとづく真の世界平和の構築を 目標とした活動です。 世界的な平和活動の一つとしての展開をめざしており、 戦火、貧困、環境破壊など、 人類と地球にとって多くの困難な課題を対象としています。 デザインを基軸とした総合的なアプローチによって 解決策を見い出し、その実現に取り組んでいます。 Peace-Keeping Design Office, Nonprofit Organization SDwave

『命と向き合うデザイン』 

 OutputのためのInput

思い付いたり、 思い込んだりするために必要なこと。 沢山あります。 「お前らにはまだ選ぶだけの能力はない。  出されたものは残らず食え!」と、 昔ある先生(M)に教えられました。 「良いか悪いかを判断できるほど、  君たちはまだ物事を知らない。  ただ、好きか嫌いかは感じるでしょう。  その違いをちゃんと自覚しておきなさい」 高校生の頃に、 部活動の顧問の先生に教えられました。 出すためには、まず、入れなければいけない、 ということです。

『命と向き合うデザイン』 

 プラトンの二面性

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何を言っても、「自分がつくりたいからつくる」、 という思いが重要です。 「誰かに言われたから」は以ての外としても、 「誰かのためになるから」というお題目を掲げることも、 結局は逃げでしかありません。 自分がつくりたいからつくる、には、 逃げ場がありません。 勿論、それを庇う人はいるでしょう。 「私が『○○が欲しい』と言ったから・・・。」と。 でも、それは切っ掛けにはなったとしても、 最後には関係なくなるのです。 人間には、プラトンの二面性でいうところの、 つくり手としての自己と、 つかい手としての自己があります。 つくれるときにつくれるものをつくることは、 結局、自分にかえってくるのです。 つくれたかもしれないときにつくらなかったこともまた、 結局、自分にかえってくるのです。

『命と向き合うデザイン』 

 潜在的な「何か」

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ニーズを満たしている商品は、 確かに売れます。 そして、すぐに消えていきます。 ウォンツを満たしている商品は、 最初はなかなか売れない、かもしれません。 でも、一度売れれば簡単には消えません。 重要なのは、 顕在化している「何か」(ニーズ)の上にある、 潜在的な「何か」( ウォンツ )を、 提供できるかどうかです。 ニーズは聞けば出てきます。 でも、 ウォンツは聞いても出てきません。 寧ろ、聞いて出てくるものはウォンツではありません。 「思い付いて」、 「思い込んだ」先、 「思い遣り」で包まれたトコロに、 それは必ずあります。 ウォンツを生み出せるのはデザインだけです。 ウォンツを生み出すことがデザインなのです。

『命と向き合うデザイン』 

 見えない果実

デザインとは問題解決の方法です。 でもその前に、何が問題であるかが問題です。 「何か問題があるの?   今、使えてるわけだし、別に良いんじゃないの?  え? もっと良いのがあるの?  だったら、それ、見せてくんなきゃわかんないよ」 至極、その通りです。 デザインが問題解決なのだとしたら、それは、 ニーズではなくウォンツへの解でなければなりません。 ウォンツを持つ相手には、 「こういうモノがあるから使って」と、 言えること、 シーズを持つ相手には、 「こういうモノがあったら良いよね」と、 惹き付けられること、が必要です。

『命と向き合うデザイン』 

 機能

自然とは、 これまでの時間の積層によって構築された結果であり、 これからの時間の積層を生み出していく原因です。 それは、留まることなく、 絶えず変化し、流れ続けています。 機能 とは、 そんな連続的である自然を、 ある時間で切り出し、 分解し、 再構築することで抽出された 要素 です。

『命と向き合うデザイン』 

 現世のデザイン

昨今、よく用いられている「デザイン」という言葉は、 大変便利です。 容易に用いられ、 軽率に捉えられ、 次々に消費されていきます。 成型精度・技術が向上する中で、 装飾を通り越し、華飾になっていく物体は、 「機能」に対立する概念としての「デザイン」、を 構築しています。 そんな中で、我々が生み出そうとしているのは、 「命と向き合うデザイン」です。 もし、本当にデザインが、 機能に「対立」する概念であるならば、 命と「向き合う」ことなどできるのでしょうか。 もし、本当にデザインが、 命と「向き合う」ことができるならば、 そのためには何を有しているべきなのでしょうか。 「デザインとは何なのか」から、 「何がデザインなのか」という視点に至ること が この解につながります。

『命と向き合うデザイン』 

 発信

言葉の重さから、 それぞれの単語の意味でしか捉えることができなかった。 腹の据えどころが少し見えて来たら、 私がこれまで教わってきたデザインの、 あるべき姿なのだと理解できた。 理解したことを書き記し、 これまで辿って来たことと、 これから拓いていくことを書き留めることで、 デザインを発信していく。