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† 五徳 †

コンロでお鍋などを置くための台のことを、 五徳と言います。 名前は知っていながらも、 なぜ、「ごとく」と言い、 「五徳」と書くのか、今まで考えたことがありませんでした。 昨日、引越し先で使うガステーブルを購入するため、 家電量販店に行き、いくつかの商品を確認した後に購入しました。 家に帰って設置している時に、 「?なぜ「五徳」?」と自問したため今更ですが調べてみました。 インターネット上の情報によると、 竈子(くどこ)という、3本足の上に円環が付いている類似のモノが、 ある時から上下を逆にして使うようになり、 名前も逆に「ごとく」になったとのこと。。。 文献などが見つかっておらず、ちょっと納得できていませんので、 もう少し調べてみようと思います。 特にお茶の歴史と関係が深いとのことで、 そういった方面の文献で確認してみます。

† 夜の明るさ †

2011年の春、 福井に引っ越した際に、 世の中では「計画停電」という言葉が使われていました。 計画的に電気を使う、というよりも、 できるだけ無駄に電気を使わない、という意味合いでした。 その時に私が福井で見た夜の景色は、 まさに、真っ暗、です。 無駄な照明など一切ない、 むしろ、必要な照明すらついていない、 そんな印象を受けるほど、 夜とは暗いものなんだ、ということを改めて感じさせられるほどの、 闇に包まれていました。 今、岡山に引っ越してきて、 さっき、少し外に出てみました。 一歩路地に入ると、、、何も見えない。 あぁ、こういう土地なのか、 と、その時に、肌で感じることができました。 この感覚は自分にとって大切なものだった、と、 改めて認識させられました。 ここで、自分に何ができるのか、 自分には何ができないのか、 恐怖と喜びの両方が溢れています。 全ては、自分がやるかどうか、 ここにはそれしかありません。

† BGM② †

大阪から岡山へ、 夕方から夜にかけて、高速道路を走ってきました。 約2時間半の道のりですから、 1曲3分から4分程度の曲でカウントすると、 約35曲ほど聞くことができます。 CDのアルバムで考えると3枚ちょっとです。 交響曲で計算すると、 全楽章で約1時間とすると、2.5回聴けます。 運転自体はある程度自動化されていますので、 音楽に意識を置いておくことができる時間と考えると、 最近の中では貴重な時間だと感じました。

† BGM †

小さい頃から音楽には触れる機会が多かったようです。 姉がエレクトーンを習っていたことから、自分もやってみたい、とトライし、 最初の挫折を味わいます。 今考えてみれば、当時は家で練習もしていなかったので、 うまくなるはずもありませんでした。 その後、中学校に進学した際に、 とある事情から運動部を選ぶことができず、 吹奏楽部へ。 一般に知られている楽器は既に定員に達しており、 人気のなかったホルンが空いていたことから、そのパートへ。 このことが、今の私の音楽に対するスタンスにつながっていると、 感じないわけにはいきません。 中学校に始めたこの趣味は、 結果的に私の進学する高校を決定し、 大学での多くの経験につながり、 今に至っています。 なぜ、今、そんなことを考えたかというと、 昨日の経験からふと考えたことでした。 昨日、引越し先から元の家に一旦戻る際に、 車の中で音楽をかけていました。 その曲自体は所謂J-popなのですが、 いつものように、旋律を歌っていると自然にハモリのパートや、 オブリガードを歌っています。 それらを行き来することが気持ち良く、 夜中の運転でも眠気が吹っ飛んでいきます。 そんなところに自分自身を感じていました。

† 纏・纒 †

Macで変換されるから使える漢字、というものが、 恥ずかしながらいくつかあります。 「まとめる・纏める」もその一つです。 小さい文字だともはや識別できません。 纏 例によって、調べてみます。 「纏・纒」 ・音:テン[漢], デン[呉](平)先(仙), (去)霰(線) ・訓:まとう, まつわる, まとい ・解字:会意兼形声。「糸+音符廛(テン)(ある所にへばりつく)」。ひもや布を一か所にへばりつくようにまきつけること。 「廛」 ・音:テン[漢], デン[呉](平)先(仙) ・訓:やしき, みせ ・解字: 会意。「广(いえ)+里+八印(わける)+土」で、村里や町の中で、一軒ずつに区切ってわけた土地にたてた家を示す。平らにならした宅地のこと。 まとめる、という意味をそこまで深く考えたことはありませんでしたが、 こうして見てみると、 まとめるということは、 「場所」が重要なのだと理解できます。 必要な場所を設けて、 そこに紐で縛り付けることがまとめることなのだ、と理解できました。

† 専門業者 †

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引越しを請け負う業者がいくつかありますが、 例えば、昨年ニュースになったヤマトなどは、 運搬業務の一つとして引越しを請け負っている事になります。 それに対して、引越しの専門業者があります。 これまで、自分で業者を手配して引越しする際には、 その点はあまり考慮せず、比較的安価で対応してくれるところ、 という視点で探していました。 しかし、今年の引越しは、「引越し難民」という言葉が生まれるほど、 業者を見つけることが大変なこともあり、 3月中旬から探したにも関わらず、 対応してくれる業者が見つかっただけでも御の字だと考えていました。 そこは所謂引越し専門業者であり、 業界的にも大きな企業だったのですが、 その手際や作業内容を見て、業績が良いことが納得できました。 運ぶ物品に応じて手法が完成されていることはもちろんですが、 なぜその方法なのか、 どうしてそういう方法に至ったのか、 それが明確に決定され、担当者が理解していました。 今回は当初3人で、とのことでしたが、 応援が駆けつけ、最終的には6人でご対応いただき、 2tロングのトラックにフルに積み込んで完了しました。

† コンテナ †

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実家を出てから24年目に入ろうとしています。 引越しの度に荷物を整理し、 多くのものを捨てたり、纏めたりしてきました。 どうしてもモノは増えていくことになるため、 如何に纏めるか、が私の中では大きなポイントでした。 結論としては、研究室でやっていたのを参考に、 同サイズのコンテナに、分類ごとに入れ、 積み重ねていく、という方法に落ち着いています。 賃貸の床にそのまま積んでいくと跡がつくため、 コンパネ(コンクリートパネル)を2枚敷き、 そこに積んでいく方法を取っています。 内部へのアクセスが難しいという問題はありますが、 使用頻度が高いものを手前に置くことで、 なんとか解消しています。 改めて、この中に眠ってしまっている書籍を、 一つずつ読んでいきます。

† 引越し †

数えてみたところ、 次で14回目の引越しになるようです。 父が銀行員だった関係から、 小さい頃は約3年単位で引っ越していました。 友達と離れたり、 つくっていた秘密基地に行けなくなったり、 遊び場が変わったり、 幼心的に色々と思うところはあったのだと思いますが、 物心ついた頃からそういう環境だったので、 「そういうものだ」と、 本能的に感じていたように思います。 そのお陰か、今でも新しい場所に行くことに抵抗はありません。 次の場所には何があるんだろう、 どんなところなのか、 どんな場所があって、 どんな歴史があって、 どんな人がいるのか、 どんな文化があって、 どんな食べ物があって、、、 と、自然に受け止めている自分がいます。 多分、掘り起こしてみれば下の方には不安があるのだと思います。 しかし、本能的に知っているのだと思います。 それ以上に、絶対に成長する機会になる、ということを。 今までのように受け身ではなく、 その機会を積極的に掴み取るために、向かっていきます。

† RB|ツールセット③ †

ロードバイクで走るときはできるだけ軽装にしています。 山の麓に住んでいたときは、 休日朝一にヒルクライムのようなことをしていました。 ウェアに着替え、 背中の3つのポケットに、それぞれ、 ・左:ABUSのチェーンロック ・中:家の鍵・ビンディングのカバー ・右:携帯電話 という配置で入れていました。 これに自転車に付けているツールセットが全装備でした。 これだけで少なくとも1日は走り続けることができます。 というか、一回パンクするまでは走り続けることができます。 体(エンジン)が動き続ける限り、走り続けることができることから、 極めて自分向きの運動であり、道具である、と感じます。 そんな形で、こういった趣味についても覚書を残していきます。

† 質問する難しさ †

昨晩から本日にかけて、 ある方の引退会見が放送されていました。 会見の放送はよくありますが、 その時に考えさせられるのは、 「何を質問するのか」ということです。 多分、多くの人が「そんなくだらないことを聞いて、、、」と 感じることも少なくないのではないかと思います。 しかし、では、一体、 自分ならば何を聞くのか? どんな質問が「良い」のか、となると、 それは実は非常に難しい事柄です。 知りたいことを聞く、ことが、 確かに最も純粋且つ本人にとって意味のあることです。 しかし、質問とはつまり、 「相手が語るための機会を与える」ことなのではないかと 考えてしまいます。 これは、時間とともに変わっていくのだろうか、 と考えさせられた夜の時間です。

† RB|ツールセット② †

ロードバイクに乗っている人は、 人それぞれの考えで楽しんでいると思います。 私の場合は、 できるだけ身軽に色々なところに行きたい、 という考えがメインです。 そのため必要な物品などはできるだけコンパクトにまとめ、 極力軽装で乗っていたいと考えています。 昨日載せたツールセットは、 その点では私にとって非常に洗練されたセットです。 簡単なパンクはシールで塞ぎます。 ホイールを外す手間が省けます。 状況によってはチューブ交換は止むを得ません。 手元の空気入れでは6気圧までは入るので、 適当なところまで入れたらできるだけ早く自転車屋さんを探します。 正直、ドライバーは必要ないかな? と感じていましたが、 つい先日、使うことになりました。 何かの弾みで緩んできただけ、 ですが、ドライバーがなければ絶対に締めることはできない、 と考えると、このくらいコンパクトにまとまっているなら、 まぁ、良いか、という印象です。 次は、身に付ける、方の道具についてまとめます。

† RB|ツールセット †

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自分自身の覚書として、 趣味に関することも少しずつ書いていきたいと思います。 ロードバイクに乗るようになって、 まだ、5年ほどしか経っていませんが、 なんだかんだと自転車には乗っていました。 小中高から、大学に入ってからも、 基本的な移動ツールは自転車でした。 いわゆる普通のシティサイクルと呼ばれているものですが、 何台も乗りつぶしてきました。 金沢にいる頃に初めてロードバイクに興味を持ち、 たまたま自転車屋さんで気に入ったモデルが、 当時の自分のお金でも購入できるものでしたので、 何かの縁かと感じ、思い切って購入にしました。 本体の話はまたしますが、 今回は、普段から持ち運んでいる道具についてです。 できるだけ少ない道具で、 できるだけコンパクトに、 できるだけ軽く。 当時、店員さんに進められるままにたまたま購入したキットが、 思いの外良く。 なぜかその後もこのくらいコンパクトにまとまっているセットには 巡り合っていません。 やっぱりこれもえんだったのかなぁ、と思いながら、 必要最低限の道具で、 街を山をと駆けています。

† 目を瞑る †

「瞑」という漢字があります。 昨日、たまたま打った中にあった文字なのですが、 「あ、つぶるってこう書くのか」と感じたため、メモしていました。 ただ目を閉じる行為のことですが、 それに「冥界」の冥の字を冠した言葉が付くなんて、とちょっと驚きました。 折角なので「瞑」を見てみると、、、 と思って調べてみると、漢字源の方には 「つぶ(む)る」という読みがないことに気がつきました。 「つぶる」と「つむる」の話もありますが、まずは漢字の方から考えます。 元々の漢字の読みにはなく、意味として、 「 目を閉じてなにも見えないさま。 」とあることから、 つぶ(む)る、という読みが与えられたのかな、と感じます。 因みに解字はこうなっていました。 ・解字:会意兼形声。「目+音符冥(メイ)(おおわれてくらい)」で、目をふさぐの意。 「 冥 」 ・解字:会意。「冖(おおう)+日(ひ)+六(入の字の変形)」で、日がはいり、何かにおおわれて光のないことを示す。また、冖(ヘ゛キ)(おおう)はその入声(つまり音)にあたるから、冖を音符と考えてもよい。 意味としては、冥界や冥府と並ぶ感は理解できますが、 それにしても、つぶる、という言葉の漢字に当てるほどなのか、 と、ちょっとした違和感も覚えました。

† 操作性 †

昨日、たまたま食事の時にテレビを見ていたら、 数人でテレビゲームをやっているところを放映する番組をやっていました。 小さい頃からそういった類のゲームにはあまり親しみがなく、 少しやってはみても、今一つハマる、ということはありませんでした。 その理由はちょっと置いておいて、 彼らの手元に意識がいきました。 ゲームのコントローラー、その外観について、 多分、製造メーカーは非常に研究を重ねているのだろうな、 ということを考えていました。 一方、昨今ではスマートフォンでできるゲームが増えています。 私はiPhoneしか扱っていないため、 Androidの方は全くといって良いほどわからないのですが、 少なくともiPhoneについては、教育上問題があるようなものは アップできないようになっているはずです。 様々なゲームがあるわけですが、 いずれも画面へのタッチだけで操作できる、 ということと、 昨日見た、コントローラーの形状、 人間の適応能力は本当にすごいものだと感じます。

† 曖昧 †

あいまい、という表現について。 それぞれの漢字について、解字を見てみます。 「曖」 ・意味:くらい(くらし)。日が雲に包まれてくらいさま。はっきりけじめがつかない。 ・解字:会意兼形声。旡(カイ)・(キ)は、胸がいっぱいに詰まってのけぞったさま。 愛はそれに心と夂(あし)を加え、胸が詰まって足もそぞろに進みかねる意を示す。 曖は「日+音符愛」で、日が雲にはばまれて進みかねること。 「曖」は同義語に「靉(アイ)」があるとのこと。 見たことあるかな?と思う漢字です。調べてみると、 靉は「雲が行きかねて止まる」という意味で、 同義語に「靄(アイ)」があるとのこと。 こちらも調べてみると「 雲やかすみがたちさりかねてたなびくさま 」 堂々巡りのようにも見えますが、 要は、自然現象によって見えにくくなっている状態のようです。 丁度出てきたので、「愛」の字も見てみます。 「愛」 解字:会意兼形声。旡(カイ)・(キ)とは、人が胸を詰まらせて後ろにのけぞったさま。 愛は「心+夂(足をひきずる)+音符旡」で、 心がせつなく詰まって、足もそぞろに進まないさま。 こちらはある意味、わかりやすく、そのままの印象です。 「旡」は珍しい漢字ですので、こちらも見てみます。 「旡」 解字: 象形。腹がいっぱいになって、ため息をつくさまを描いたもの。 この字形は、欠(腹がへってしぼむ)と反対である。 のち、ごちそうを示す部分をそえて、既とも書く。 現代の日本では用いない漢字ですし、 ちょっと印象とは違っていました。 他方、「昧」の方についても同様にします。 「昧」 解字:会意兼形声。未(ミ)・(ヒ゛)は、小さくて見えにくいこずえのこと。 昧は「日+音符未」。 「未」 象形。木のまだのびきらない部分を描いたもので、まだ…していないの意をあらわす。 こちらは素直にわかりやすい印象を受けます。 この二つの漢字から曖昧となりますが、 愛と雲のあたりはもう少し細かく見ていきたくなりました。

† 強い印象が記憶に残る †

体が覚える、 ということと、 非常に印象的で記憶に残っている、 ということは、 ともに「人間」ならではなのでしょうか。 AI技術が様々なことを学習し、 それを活用して問題を解決する過程において、 上記のようなことは発現しないように感じます。 では、人間にとって、上記のようなことは「必要」なことなのでしょうか。 人間は非常に曖昧な存在です。 (曖昧、という言葉も明らかにしたい) 体が覚えるくらいにやり込めば、 正確にできるようになります。 別な言い方をすれば、それは、 目的に応じた動きを体ができるようになる、 つまり、そのための筋肉が養われている、ということです。 印象的なことが記憶に残る、というのはつまり、 これまでとあまりに違うために、 「記憶しておいた方が良いのではないか」と脳が作用するのでしょうか。 それはある意味、生きていくために必要な能力、と言えるのでしょうか。

† 体に覚えこませる †

新しい言語を習得したり、 身体を使って新しいことができるようになる、 という場合、 体が覚える、 体に覚え込ませる、 という表現を用います。 人間は、頭でわかっている、ということと、 それをうまく使うことができる、ということとは、 別物です。 今、AIに関する本を読んでいます。 「如何に学習させるか」という部分を読み進めていますが、 ロボットの場合、学習することができた内容は、 そのまま活用することができます。 非常に効率が良い、と言えます。 その点、人間は、、、 しかしながら、そこには何か重要なことが隠されているとも感じます。

‡ 現代におけるAIを考えてみる⑨ ‡

一枚の画像をコンピューターに認識させようとした場合、 昔からの発想で単純に考えれば、 左上から1ピクセルずつ、 只管認識させていく、という方法が一番シンプルです。 ただ、単純に時間が必要になります。 この処理方法は、実体験として持っています。 2000年前後の頃、CADで立体をつくり、 テクスチャーを付けた状態でレンダリングをかけると、 見事に左上から画像が出来上がっていきました。 ピクセル数十個分単位で処理が進んでいき、 その数十個分が数個分になり、 最終的にピクセル一つ分で処理が進んでいくのを視覚的に確認しながら、 完成を待っていました。 ある時、夜中に高解像度のレンダリング処理をする必要があり、 ネットワーク上に存在するMacに 可能な限りレンダリングサーバーのプログラムをインストールし、 夜中かけて処理を行いました。 20台近いMacを使ったのですが、 当時の高性能デスクトップと数台のノートブックで行なったところ、 処理速度の違いが、視覚的に現れていたことを未だに覚えています。

‡ 現代におけるAIを考えてみる⑧ ‡

機器に何かを理解させるためには、 機器が理解できる言葉に翻訳する必要があります。 これは、大変な作業である、と言われていますが、 普通の人間同士の生活の中でも必要なことです。 企業の人とのコミュニケーションや、 学生や同僚などとの会話、 様々な場面で普通に必要になることです。 私自身、現在、英語を改めて学んでいますが、 そういった母国語とは違う言葉とのコミュニケーションにおいても、 翻訳(自身または他者による)は非常に重要です。 しかし、言語が違う人間同士の場合と、 人間と機器との場合との一番大きな違いは、 文法や単語を置き換えることでは解決できない、ということです。 そんな中で、これまでとは違った解決案も出てきたようです。

‡ 現代におけるAIを考えてみる⑦ ‡

ビッグデータとは何か、 何がビッグデータか、ということを考える場合、 その一つの解は、 「機器に柔軟性を持たせるもの」という言い方ができるようです。 三段論法では説明がつかない人間の考え、 Aを見たときに、それがAである、と認識する能力などがそれですが、 それを機器に導入する際に活用できると考えられたのが、 ビッグデータのようです。 見極めさせたい対象の画像を大量に見せる、 それによって学習してもらう、 言葉で表現するのは簡単ですが、 これをきちんと定義するのは大変です。 「見極めさせたい対象」であることをどのように定義するのか。 ラベリングするのか、ということが難しいことは、 容易に想像がつきます。 この、「どの画像に何が写っているか」というラベルをつけたものを、 教師データと呼ぶそうです。 Digitalの「1」「0」の世界において、 それを示す、ということの難しさと「手間」は すごいコストになります。 その部分を機器に頼ることができれば、 どれだけに楽になるだろうか、と考えずにはおれません。

† 懇ろ †

画材を買いに地下鉄に乗っていると、 吊り広告に次の言葉が出ていました。 「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」 この言葉については別で取り上げるとして、 これに関連して、別府温泉の宣伝が続き、 その中に一節がありました。 聖書から「旅人を懇ろにせよ」 帰って調べてみると、 聖書のヘブル人への手紙の13:2からの引用とのことです。 "Do not forget to entertain strangers, for by so doing some people have entertained angels without knowing it." 「旅人をもてなすことを忘れてはならない。 このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。」 これを「旅人を懇ろにせよ」とまとめる力、すごいと感じました。 漢字が持つ力、とも言えると感じます。 「懇」 解字 会意兼形声。上部の字(音コン)は深くしるしをつける意を含む。 懇はそれを音符とし、心を加えた字で、心をこめて深く念をおすこと。

† 情報を処理する †

読み、ながら、 聞き、ながら、 観、ながら、 内容を理解する、ということ、 情報を処理する、ということは、 非常に複雑な行為だと感じます。 英語のドラマでそれをやってみていますが、非常に難しい。 一つは、 英語の不出来が大きな要因になっていることは間違いありません。 ただ、日本語でも同様のことが起こり得ると考えると、 情報処理に関する問題であるとも言えます。 Aという対象は、様々な形で情報を持っています。 A ∋ 文字情報, 音声情報, 映像、、、 動きを見ながら、科白を聞くことはできます。 しかし、 セリフを聞きながら、それを文字として読むためには、 感覚をつかむまでに時間が必要です。 何かがハマると瞬間的にわかるようになる、 そのハマる何か、とは何なのか。 英語の勉強をするとともに、 情報理解という観点からその部分についても考えていきます。

† 聞きながら見る †

海外のホームドラマを、 英語の字幕を付けて、 英語の音声を聞きながら観てみています。 毎日、(できるだけ)同じ時間に観るようにしていますが、 開始早々はどうしても聞くのも、読むのも、観るのも、 チグハグな感じです。 そこを我慢しすつ数分見ていると、 不思議と観る・読む・聞くが、 一致してきます。 「あれ?」と感じて、 日本語の音声・日本語の字幕でもやってみたところ、 実はそれも慣れるまでちょっとギャップがあることに気がつきました。 頭の中でそれぞれの情報をきちんと整理して受け止められるようにする、 そこまでの準備は、特に英語ができるかどうか、 とは別な能力なのだと理解できました。 続けていきます。

† 穿 †

「穿」 「貫」 「串」 「川」 これらは同系の漢字、という表記を見ました。 一見すると上の二つは、なんとなくそうなのだろう、と感じます。 三つ目の串にしても、役割を考えれば違和感はありません。 ただ、最後の「川」に関しては思わず「え??」と声が出ていました。 それと同時に、今まで調べたことも考えたこともなかったことに気づきました。 漢字源で確認してみると、 「川」には異体字として「巛」があるそうです。 解字を見てみます。 象形。く印は地の間を縫って流れる川の象形。川は、三筋のく印で川の流れを描いたもの。貫(つらぬく)と同系であろう。穿(セン)(つらぬく、うがつ)と最も近い。 漢字の「近さ」というものがどこから来るのか、 部首などの部品によるものが多いのではと考えていましたが、 それだけではないことがわかるとともに、 同系の中にも近さが異なるものがある、という点に非常に興味が湧いてきました。

† 微に入り細を穿つ †

微に入り細を穿つ、 微に入り細にわたる、 微に入り細に入り、 いずれも非常にこまかい点にまで気を配る、ということです。 上の二つは広辞苑にありましたが、 最後の一つは予測変換で出て来ました。 またこの言葉も、何らかの経緯があるのかもしれません。 いずれにしても、 美しいものを得るためには、微と細が必要です。 それが難しい。

† 速く読む †

本を読む速度は、人それぞれ異なると思いますが、 私の速度は大変遅くなかなか読み進みません。 以前、速読の方法もいくつか覚え、 やってみたことがあります。 それはそれである程度の速度まではいきましたが、 内容を本当に理解できているのか、 ということが気になり、結局やめてしまいます。 しかし、現在、例えば毎日流れてくるネットのニュース記事などは、 全てをじっくり読んで、などとやっていては、 それだけで時間が過ぎていってしまいます。 そのため、いつの間にか勝手に飛ばして読んでいるようです。 そんな中、英語のアプリの中に、 ニュースの記事を一定速度でスクロールしていくものがあり、 試しに使用してみたところ、 もちろん簡単に読める、ということはないのですが、 いつもだったら気になって立ち止まってしまう様な単語が現れても、 立ち止まることはできず、どんどん流れていくことから、 強制的に最後まで送られていきます。 これが自分にとっては思いの外良いことに気がつきました。 考えてみれば、日本語の記事だって、全ての単語を読んでいない、 という当たり前のことを目の前に見せられた気がしました。 一つの方法として取り入れています。

† 勧められた本 †

昨日、ある本を教えていただきました。 これまで読んだことがないのはもちろんのこと、 改めて読んでみよう、とも考えていなかった系統の本でした。 今の自分にとって、 そして、これからの自分にとって、とても必要な書籍だと感じました。 表面だけしか知らないことは、知っているとは言えません。 それを得るために書籍を読み込み自分のものにしなければなりません。 1つの講義をするには、200冊の本を頭に入れなければならない、 と教えられました。 ただ読んだだけでも駄目なのだと感じています。 頭に入れ、自分の言葉にできていなければ、 借り物言葉でしかありません。 それを積み重ねていかなければならない、と強く感じています。

‡ 現代におけるAIを考えてみる⑥ ‡

インターネットが発達したコトで、 AIの研究が進んだ、という現象の背景には、 機械学習という方法論の導入があるそうです。 以前は、三段論法の積み重ねが思考の基本と考えられていたそうですが、 それでは説明できない現象が散見されることは、 普段の生活からもよくわかります。 例えば、とここで例に出されていたのは、 「イチゴ」を見て、「イチゴ」だとわかるのには、 論理は役に立ちません。 辞書で読んでもわかるようにはならない。 「イチゴ」を見て、これだ、と知るしかない。 まさに百聞は一見にしかず、ですが、 これは、論理の研究を進めてきた人にとっては、 ある種、敗北感を味わうようなものではないか、とさえ思います。 私には、類似の体験があります。 だいたい9月から10月くらいになると、 金木犀が花をつけ、良い香りがしてきます。 しかし、実は私は、この「金木犀の香り」を、 30過ぎまで知りませんでした。 正確にいうと、「その香り」は知っていて、 毎年、ある時期、ある場所を通ると、良い香りがするなぁ、 と感じていたことがあります。 しかし、どこからその香りが来るのか、 その香りの元は一体なんなのか、 それこそ、実は調べようがなかったのです。 今では写真での検索などは可能になりましたが、 じゃぁ、香りはどうやって検索するのか? それをどうやって他者に伝えるのか。 同じことは味と触感でも言えます。 (触感に関しては一部研究でやりましたが) そんなことへの気づきと対応が、 AI技術の進化を進めたようです。

† 自分にとっての価値 †

久しぶりに高速道路を長時間運転する機会を得た。 合計で5時間ほどだったが、 これまでの中で一番疲れなかった、疲れを感じなかったと思う。 運転そのものが好き、ということもあるが、 好きな車を運転できている、ということも大きいと言える。 「価値」とは、 望ましいモノ・コトであり、 好ましいモノ・コトである。 また、 安全で安心できるモノ・コトであり、 信頼・信用できるモノ・コトである。 今乗っている車には、私のそれが詰まっている。 それこそが私にとっての価値であり、 それが結果として疲れを感じない、という効能を生み出し、 安全や安心にもつながってくる。 良いモノ、とはそういうモノだと言える。

‡ 現代におけるAIを考えてみる⑤ ‡

痛みや常識など、 知識を記述することの困難性がAI進化の壁だったことは想像に難くないことですが、 そこに「インターネット」が登場することで再び開発が進んだようです。 例えば、Googleなどの検索エンジンで何かを調べる際、 検索したい用語を入力すると、 その後の検索候補に「とは」という言葉が出るようになったのはいつからか。 あれを見たときに、「そういうことか」と 色々なことを一気に納得した瞬間がありました。 これからこうなっていくのだな、という認識から、 利便性が高まることによる危険性を考えなければならない、と考えるに至りました。 世の中の動きを見たいときは、 その候補を追いかければ良いが、 自分自身が何かをつくっていかなければならない場合は、 その候補に含まれていないものを追いかけなければならない。 そう考えさせられました。 しかしながら、AIに関する研究にとっては、 そのことが大きな一歩であったことも、 また、想像に難くないことです。

‡ 現代におけるAIを考えてみる④ ‡

数学の定理を自動的に証明するプログラムから始まり、 1980年代には、コンピュータに専門的知識を学習させ、 それを使って問題を解決させる、という試みが行われたそうです。 エキスパートシステムと呼ばれそうですが、 数値化できない事柄については対応できない、 という一般的に想像しうる機器の限界のようなものが壁だったようです。 例として医療が出ていました。 「お腹がチクチクと痛い」という表現を数値化しろ、と言われたら、 誰でも困ります。 むしろ、この問題は、人工知能云々とは関係なく、 一般の医師でも起こっていることです。 痛みを10段階で考えた場合、どのくらいか? お腹の上の方か下の方か? 刺すような痛みか、叩かれたような痛みか? など、いろいろな表現を用いて、 なんとか病状を理解し、治療方法を導く、 これは、非常に難しい方法です。 現代では、患者の言葉から、症状を推察し、 その推察を明確にするために検査を行います。 検査の結果が、推察した症状と同様の結果を示せば、 そこから即治療に進むことになりますが、 もしも、推察と検査結果が示すものが違った場合は、 推察を変更し、状況によっては検査をし直すことになります。 つまり、機器でも理解できるように痛みを数値化することができれば、 医療にとって非常に大きな一歩になる、とも言えます。