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『自己を見つめるデザイン』

 パターンの蓄積

最初は行き当たりばったりでつくっていても、 しばらくその状態が続くと、 ちょっと様子が変わってきます。 どう変わるか。 これは勿論、今だから客観視できることですが、 つくりためていく中で、 いくつかのパターンが、 頭、または見えるカタチで目の前に、 できてくるのです。 最も単純でわかりやすいことを例にとれば、 正方形の折り紙を斜めに折ると、 直角三角形になる。 誰でも知っていることです。 当たり前のことです。 それを少し発展させると、 斜めに二回折ると、 袋状にしてつぶすことができます。 (なんとなく想像がつきますでしょうか) 割り箸鉄砲で言うなら、 日本の割り箸の間に、 斜めに輪ゴムをかければ十字架にできます。 そのかけ方のバランスをかえれば 角度をつけることができます。 先に切り込みをつければ、 輪ゴムを引っかけることができます。 そんな風に、一つ一つは単純なコトですが、 そういったことが、 頭や目の前に パターンとして蓄積されるコトになります。

『自己を見つめるデザイン』

 遊びの中の微かな変化

そんなわけで(?)、 私の子どもの頃、 つまり、今から20年30年前などは、 所謂ゲーム機器で遊んでいても、 どこかで現実の「人」とつながっていました。 そして、私に関して言うならば、 ゲーム機器で遊ぶよりは、 外に出ていって、友達と遊んだり、 以前記したように、 ダンボールや割り箸といった、 当時何処にでもあったモノをつかって、 工作を楽しんでいました。 割り箸でゴムの鉄砲をつくるときや、 折り紙を折って何かをつくるとき、 ダンボールで家(小屋?)をつくるとき、 何れも、最初は行き当たりばったりです。 こうやったらどうなるだろう、 ここにこれをつけたらどうなるだろう、 と、文字通り、つくりながら考えています。 しかし、 今、その時の様子を思い起こしてみると、 その後、ちょっと違う方向に進んだように思えます。

『自己を見つめるデザイン』

 ゲームでは遊べども

今の子ども達へのゲームの影響云々、 という話をするつもりはありませんが、 私に関していうならば、 ゲームの世界に完全に没入することはないようです。 勿論、たまにやれば面白いのですが、 それよりも、現実の世界で遊んでいる方が、 遙かに多くのことを得ているように感じます。 もう良い年になった大人が「遊ぶ」などというと、 ちょっと変に聞こえますが、 小さい頃も同様で、 ゲーム機器を使って遊ぶことはあっても、 あくまでも「遊ぶ」といえば、 誰かの家にお邪魔したり、 数人で自転車でどこかまで行く、 ということが基本でした。 思い返してみると、 家の近所に一人、色々なゲーム機器を持っている子がいて、 その子の家に屯して、 みんなで話ながら、 ゲームをしながら、 というような時間の使い方だったように思います。 集まった面子で対戦ゲームなどをしたり、 誰かがゲームをしているのを何人かで眺めつつ、 全然関係ない話をして、といったような感じです。 あまり遊んだことがないのでわかりませんが、 今のネットワーク型のゲームも、 そういった使われ方をしているのでしょうか。

『自己を見つめるデザイン』

 ゲーム機器

今でこそ、私の周りには、 携帯電話であるiPhoneをはじめ、 MacBookやiPad、iPodなど、 様々(大分片寄りはありますが)な機器、 というか、遊び道具があります。 しかし、昔からそうだったのかと言えば、 そんなことはありません。 私が小学生になったころ、 丁度、初代ファミコン、 ファミリーコンピュータなるものが、 市場に出てきました。 そして、それからの数年間で、 実に多くの家庭に、 所謂「ゲーム機」が導入されることになりました。 一方、私の家にゲーム機が導入されたのは、 私が小学校の高学年の頃、 一番最初のゲームボーイ、という機器が出た頃です。 普通はそのままゲームの世界にはまっていく、 という展開なのでしょうが、 私の場合はどうもそうはならなかったようです。 親から「一日何時間まで」 などと言われるまでもなく、 それまで同様、外で友達と遊んだりしていたようです。

『自己を見つめるデザイン』

 当時の「空き地」

引っ越し後に出る、 大量のダンボールは良い遊び道具でした。 そして、それと同時に、 引っ越し先の家の近くに、 空き地や、資材置き場、 神社の敷地、など、 新しい「場所」を探すのも、 楽しみの一つでした。 小学校低学年の頃の記憶ですので、 極めて断片的でしか有りませんが、 所謂「探検」が好きだったのだと思います。 屋根がかかっているようなところを見つけ、 隠れられないか(何から?)試してみたり、 そこら辺に落ちているモノを被せて、 隠すことができないか(何から?)実験したり、 そんなことをやっていました。 勿論、そんなことをやっていれば、 怪我をします。 ダンボールを切るときに手を切ったり、 何かの間に挟んだり、 本当に良く怪我をしたと思います。 例えば、小学生の頃、 大きな石材を扱っている資材置き場で、 石をどけて空間をつくろうとしていたとき、 うっかり、 左手の人差し指を石と石の間に挟んでしまいました。 痛いのなんのって、もう、本当に、 必死に泣くのをこらえながら家に帰りましたが、 その日の夜、お風呂に入っているとき、 手をお湯に沈めると同時に、 爪がプカァ〜と浮いたのを覚えています。

『自己を見つめるデザイン』

 引っ越し後に残るモノ

私は小さい頃、 工作などをとても好きでした。 と、言っても、 比較対象がないため、何と比べて好きだったのか、 絶対的指標がないため、どの程度好きだったのか、 説明するのは困難ですが。 例えば、 紙があれば正方形にして折り紙をし、 割り箸があれば輪ゴムピストルをつくり、 ダンボールがあれば小さな家をつくり、 空き地に材木置き場があれば秘密基地をつくり・・・ 今考えてみれば、あの頃の方が 余程自由に創作活動を行っていました。 別に自由があった、ということではなく、 何も考えずに、 本当にただつくりたくてつくっていました。 逆に言えば、何も考えていなかったから、 身体が動いていたのかも知れません。 そんな私にとって、 転勤族、というのは ちょっと嬉しいことでもありました。 勿論慣れ親しんだ場所を離れ、 友達とも会えなくなるのは寂しいことでしたが、 引っ越し後に出る大量のダンボールは、 私にとっては絶好の遊び道具だったと、 記憶しています。 大きめのダンボールを選び、 それを家と仮定します。 中に2階をつくり、 ドアを開け、 窓を開け、 家具をつくり、 そして、 豆電球の照明を入れる。 自分が入るサイズの家をつくるのは、 当時のサイズでも困難でしたが、 何とかやっていました。

『自己を見つめるデザイン』

 ダンボールハウス

できると思っていても意外とできない。 様々な場面で多く人のが体験することだと思います。 絵には描けたけど、 実際につくってみようとすると難しい。 例えば、昨年見学させていただいた授業の中に、 ダンボールで家をつくる、というものがありました。 つくる前にグループ毎に完成予想図を描かせ、 今度はそれを実際につくってみる、 というものです。 これがとても難しい。 何が難しいかというと、 完成予想図のようにできない。 なぜできないか? 例えば、 壁が立たない。 天井が乗らない。 入り口を開けられない。 人が生活できるだけの空間をつくることは、 意外と骨の折れる作業です。 屋外でつくったわけではないので、 自然の猛威に曝されることはありませんでしたが、 平らな場所にただ建てるだけ、 にも関わらず、 その「ただ建てる」ということが 本当に難しいようでした。

『自己を見つめるデザイン』

 価値あるできそうなこと

「できそうなこと」をすれば、 想像と創造のギャップを埋めることができる。 この「できそうなこと」も、 例えばデザインで言うならば、 経験や知識が豊富なデザイナーが考える 「できそうなこと」であれば、 多くの場合、新規性を持っており、 非常に飛躍的な創造性が望めます。 そのため、 安全策というような案であっても、 優れたデザイナーが考えた案は、 社会的に大きな価値を持っていると言えます。 ただ、 デザイナー本人にとっては あくまでも安全策なので、 多くの場合、苦肉の策と言えるものかも知れませんが。 では、優れたデザイナー以外の場合はどうでしょうか。 つまり、優れたデザイナーと呼ばれる人は、 ごくごく僅かな限られた人達です。 それ以外の多くの人達は、 新規性に乏しい「できそうなこと」しか、 想像して創造できないコトになります。 それではなかなか良い製品を商品化できません。

『自己を見つめるデザイン』

 できそうなこと、とは

想像と創造の間を埋めるためには、 いくつかの方法があります。 最も簡単なことは、 創造できそうなことを想像すること。 つまり、できそうなことを考えること。 要は、新規性を求めず、 石橋を叩いて渡るような案を考える事です。 この場合、勿論、飛躍的な創造性は期待できません。 というよりも、 飛躍的な創造性を期待しないことが大前提です。 安全策と呼ばれ、 落としどころ、 とも言われます。 このように表現すると、 とてもつまらないアイディアのように見えますが、 逆に言えば、 失敗をしづらい、という点で価値を持っています。 では、そもそも、 「できそうなこと」とはどういうことか。 この「できそうなこと」自体が、 人によって違うのです。 ある人にとっては「できそうなこと」でも、 別の人にとっては困難だと思える場合があります。 同様にその逆もあります。 つまり、 個々人によって非常に差異性がある事柄です。 その差異性は経験や知識に依拠しています。

『自己を見つめるデザイン』

 計画と実行

企業は、ギリギリのモノを狙っていきます。 実現できるかどうか、ギリギリのところ。 容易であれば売れませんし、 困難であれば実現できません。 様々な捉え方ができることですが、 その一つにあるのは、 計画と実行の連続性に関する問題です。 簡単に言えば、 考えたモノをそのままつくるのは、 意外と容易ではない、ということ。 勿論、容易なモノをつくるのであれば、 特に問題になることもありませんが、 新しいモノをつくったりする場合には、 常につきまとうことです。 想像と創造のギャップとも言えます。 デザインとは、新しいモノを生み出す行為です。 この想像と創造のギャップを減らすことは、 デザイナーとして必須な訓練の一つです。

『自己を見つめるデザイン』

 ギリギリを狙う

全く新しいことを考えるのは、 容易なことではありません。 一口に新しいこと、と言っても、 色々なレベルがあります。 突拍子もないことを思いつくのは難しいことですが、 同様に、 ギリギリできそうなこと、を考える事も、 実は難しいモノです。 できるかできないか、 ギリギリのところ。 実際に企業などで働いているときは、 そこをうまく狙っていくことが重要です。 簡単に実現できるモノは、価値が低く見られます。 つまり商品として売り出しても、 新規性が乏しく購買意欲を刺激しづらい。 しかし、逆に、 あまりにも実現が困難なモノも、 勿論、企業としては価値が低く見られます。 つくることが難しい、ということはつまり、 つくるためには過剰なコストが必要になる、 とも言えることが多いためです。 どんなに沢山売れても、 製造自体にコストがかかるようでは、 儲けは少なくなってしまいます。 そういう点から、 どのようにギリギリのところを狙っていくかが、 とても重要なのです。

『自己を見つめるデザイン』

 世界という劇場の中で

歴史とはつまり、 過去における、 ・ヒトのつながり ・コトのつながり ・モノのつながり そして、 これらの掛け合わせを学ぶこと、 と考えます。 つながりであるが故に、 それは「今」に至るまでつながってきます。 以前記した言葉で言うならば、 それはcontextと言えます。 劇場とは、 「時間と空間をcontextとして、  行われる行為をcontentsとしたとき、  演ずる側と観る側が  同じcontextを共有することで、  contentsの価値が明確になる。」 と書きました。 この世界を一つの劇場と捉えるならば、 全てのヒト・コト・モノは、 様々なcontextにのって変化しうる、 contentsと言えます。 自分自身を一つのcontentsとして、 どのcontextの中にいるのか、 そして、 そのcontextは果たしてどこへ向かうのか、 それを常に考えなければいけません。

『自己を見つめるデザイン』

 過去から学ぶ

この地に来て、学んでいることの中に、 過去から学ぶ、というものがあります。 以前、既に亡くなった人から学ぶ、 つまり、本を読むということを教わりました。 今、この地に来て、過去、そのものから、 多くのことを学んでいます。 かつてあったこと、 かつて行われたこと、 かつて言われたこと、 簡単にいってしまえば、 歴史から学ぶ、などと言われますが、 では、歴史から学ぶとはなんなのでしょうか。 私はそれを、 ・知識獲得 ・未来予測 と考えます。 前者は文字通り学ぶこと、ですが、 寧ろ、後者の方が重要なのではないでしょうか。 これは、 歴史は繰り返すという意味ではありません。 物質的な事から、 思考的な事まで含め、 過去を知ることは、 未来を予測することにつながるのだと考えます。

『自己を見つめるデザイン』

 水に浸かっている時間

お風呂がとても好きです。 清潔にしておきたい、という、 国際的な視点ではなく、 温まりたい、という、 極めて日本的な意味で好きなのだと思います。 本来なら毎日溜める入りたいところですが、 なかなかそうもいかないので、 多くの場合、シャワーだけになってしまいます。 実家の最寄りも大きな方の駅は、 駅名に「温泉」と入っているくらいですので、 所謂昔で言うところの温泉街です。 小さい頃は家の近所にも温泉があり、 結構な頻度で入りに行っていたと思います。 今いるところも、近くに温泉があり、 以前から誘われてはいたのですが なかなかタイミングが合わず、 今日、たまたま行くことができました。 私は、夏になると、 プールや海に行くのが好きです。 水に浸かっている、という状態が好きなのかどうか、 正直よくわからないのですが、 とにかく好きです。 別に、母なる海に抱かれて、 などというつもりは毛頭なく、 本当になぜなのかわからないのですが、 私にとっての「水に浸かっている時間」は、 何か特別な意味があるようです。

『自己を見つめるデザイン』

 作品を眺める時間

数は多くありませんが、 県内のいくつかの大学や高等学校の 卒業制作展などを見ています。 今週から来月頭にかけて行われるようです。 私たちの卒業制作展は、 学内の施設の中で行われました。 外部の施設ではなかったわけですし、 今考えてみれば、広報もどの程度だったのかわかりませんが、 私自身は、そこでもプレゼン同様に好き勝手にやらせてもらい、 とても満足していたことを覚えています。 (本当に勝手な話で申し訳ないですが) 今日は3つの大学の作品展を拝見しましたが、 皆、どんな気持ちで展示しているのかな、 ということが気になりました。 プレゼンテーションでは、 自分の作品は兎に角褒めなければならない、 そう教わりました。 自分のモノが最高なのだと、 観客に対して示さなければいけない。 学生達は、みんな、各自、 その意識で向かうことができただろうか、 と考えさせられました。

『自己を見つめるデザイン』

 時間の持つ一つの価値

私にとって、大学時代は掛け替えのないものでした。 その時間があったからこそ、 今の自分があることは間違いありません。 その時間があったからこそ、 今の自分がある。 これは当たり前の事です。 今まで自分が経験してきた全てのことが、 今の自分を形成する要素であり要因になっています。 だからこそ、 自分が様々なことを選択し、 実行していくのか、考えなければいけません。 今の行為が何につながるのか、 常にそれを意識することは容易ではありませんし、 想像しきれることでもありません。 しかし、 それを常に考えながら自らの行動を決めていくことは、 必ず、将来の自分自身につながっていきます。

『自己を見つめるデザイン』

 吹奏楽とオーケストラ

大学でオーケストラに出逢ったのは運命、 などと言ってみても、 何か大層なことがあったわけではありません。 ただ、実は、中学校の頃、吹奏楽部にいた頃に、 「いつかチャンスがあったらオーケストラに入りたい。」 と考える切っ掛けになるお話しを聞きました。 以降の文は、あくまでも私の主観に依るものですので、 一般的かどうかはわかりませんのでご了承ください。 私の演奏している楽器はFrench Hornと呼ばれるモノです。 蝸牛のようにクルクルと巻かれていて、 ベル、と呼ばれる音を出す部分に手を入れ、 後ろ向きに構えているような楽器です。 この楽器、吹奏楽における演奏内容は、 伴奏であったり、裏打ちと呼ばれる、 リズムセクションであったり、 所謂、裏方さんのような役割が大変多いのです。 しかし、私自身、 特にそれが嫌、と思ったこともなかったのですが、 ある時、部活の顧問の先生から、 「もし、この先楽器を続けていって、  チャンスがあるようなら、  一度オーケストラで演奏してみると良いかもね。」 と言われていたのです。 なぜ、そう言われたのか、 オーケストラで演奏してみると、すぐにわかりました。 French Hornのオーケストラにおける演奏内容は、 というか、その立場は、 所謂、花形楽器、と呼ばれるものでした。 (因みに念のために言っておきますと、  花形楽器をOboeとする人もいますので、  何かで定義されているわけではありません) 何が花形か。 とにかく旋律が多い。 美味しいところでソロがある。 弦楽器とも金管楽器とも木管楽器とも打楽器とも 一緒に演奏する。 まぁ、何を言っても、とにかく、 美味しい役割であることが多いのです。 ということで、裏方だった立場から一転、 花形楽器という立場になり、 これまでとはまるで違った演奏をするコトになりました。

『自己を見つめるデザイン』

 時間に纏わる部活動

時間、 という意味では、 私は、非常に時間と関係の深い部活を、 中学校から修士までの約12年間続けていました。 それは、楽器を演奏する、というものです。 中学校から高校までの6年間は吹奏楽を、 その後、入った大学には吹奏楽はありませんでしたが、 その代わりにオーケストラがありました。 実は、高校の部活に関して言えば、 その高校の吹奏楽に入りたい、という理由だけで 志望校を決定していました。 幸い進学校だったため、学業も頑張ることになりましたが、 後から聞いた話では、志望していた当時の私のが学力は、 その高校に受かるギリギリだったそうです。 しかし、私の頭の中はそこに入って部活をすることで一杯。 その甲斐あってかはわかりませんが、 合格することができました。 そんな高校生活だったため、 正直、大学では部活はする予定がなく、 同時に吹奏楽もなかったため、 ここまでかな、と思っていました。 そんなときに、管弦楽団、の文字が目に入ったのです。 「あぁ、オーケストラかぁ。  これはもしかしたら運命なのかなぁ。」 と、思い、入部することにしました。

『自己を見つめるデザイン』

 学生時代の二つの時間

その時その時の時事などを絡めつつ、 時間に関して考えています。 マクロな時間の考え方として、 大学時代を考えてみます。 自分の大学生活は大きく二つの時間で構成されていました。 ・学部 ・部活 多くの学生がそうだとは思うのですが、 私の場合は、ほぼ全ての時間がこの二つのどちらかでした。 今考えてみるとどうかとも思いますが、 日中は学部の方で制作などを行い、 夕方から夜くらいになると、 自転車で30分ほどかかる部室に移動し、 部活の練習をしました。 その後、また夜更けになってからは、 学部の方に戻り、 引き続き、制作を行いました。 もちろん、毎日がそうだったわけではないので、 その合間合間で遊んだりもしましたが、 ほとんどの時間は上述のどちらかだったと思います。 普通に考えたらバカみたいな生活かも知れません。 もっと楽しいことが色々あっただろうに、 とも言われそうです。 しかし、私に言わせてもらえば、 学生のうちでなければ、 こういうことはできなかったろうなと、 逆に思ったりもします。

『自己を見つめるデザイン』

 Twitterのウソと本当

今日のニュースに、 Twitterにはウソの拡大を招く危険性がある、 という内容のものがあり、 Twitterの善し悪しを問うような記事がありました。 どうなのでしょうか。 個人が自由に発言できると、 ウソが蔓延するのでしょうか。 昨年の東日本大震災の折、 悪意あるTwitterが広まったことを書きましたが、 結局のところ、 ウソをつくか本音で話すか、 それはその人に依拠する事柄であり、 ツールとしての技術には何も関係もありません。 全く関係ない、と言っては語弊がありますが、 Twitterに関して言うならば、 ツールによってウソが助長されるとは思えません。 にも関わらず、 Twitterそのモノが悪である、とするのは、 些か早計ではないかと思われます。 人間は、信じたいモノを信じるそうです。 つまり、信じたくないことはウソになるし、 信じたいことは本当になります。 これだけを考えると、 内容で全て決まりそうに見えますが、 Twitterに関して言うならば、 情報発信者と、 情報内容の、 双方が、 自分にとってどんな意味を持っているか、 ということに関係します。 情報発信者が自分が信頼している人である場合、 情報内容がどのようなモノであっても、 それはその人にとって「本当」になるでしょう。 ところが、 情報内容が自分が信じたいモノだったとしても、 情報発信者に対する信頼感が乏しい場合、 その内容を容易に信じることはできません。 多くの場合、Twitterで自分がフォローしている相手は、 自分が信頼を寄せている人である場合が多いため、 その発言も信じられるはずです。 しかし、 そこで混乱を招く元になっているのが「RT」の存在です。 どこをどう巡ってきたかわからないRTは、 判断を鈍らせます。 更に、 それが例えば助けを求めるようなものであった場合、 ウソかも知れないと感じても、 本当で会った場合を考えると、 拡散しないわけにはいかなくなります。 これは、Twitterが悪だと言えるのでしょうか。

『自己を見つめるデザイン』

 L-L-T Cylinder 3

悔しさ。 「悔」という漢字の意味理解は、 また日を改めるとして、 卒業制作に纏わる話しから展開しての 悔しさです。 卒業制作に関してだけでなく、 いつも感じさせられる感覚ですが、 自分が知らなかった、 考えなかった、 気が付かなかった、 わからなかった、 思い至らなかった。 そういったことを感じるとき、 悔しさを覚えます。 知識が足りず、 熟考が足りず、 アンテナが足りず、 理解が足りず、 思いが足りない。 それが「悔しさ」という感情につながり、 悔しくなります。 負けず嫌いというものなのか、なんなのか。 その感覚を遠ざけるように生きていく、 つまり、 知識を得、 熟考し、 アンテナをはり、 理解力を高め、 強く思う。 一つひとつの経験から、 それを学ばせていただいています。

『自己を見つめるデザイン』

 L-L-T Cylinder 2

卒業制作についてもう少しの続きをもう少しだけ。 さて、 アクリルパイプで制作した4本のスピーカーセット、 透明では具合が悪くなったため、 内側を綺麗に目隠しする方法を考えました。 しかし、 折角の透明感のある印象や、 表面の平滑な印象はそのまま残したいと考えると、 内側に何らかの処理をするしかありません。 1200mmという長さを考えると、 塗装する、というのも自分の能力では現実味がない。 様々に試行錯誤・試作制作を繰り返しましたが、 決定的なアイディアが見つかりませんでした。 そんな中、ご相談すると、 一発で明確なお答えが。 金属の薄い板を丸めて、 アクリルパイプの中入れ、 目隠ししたい場所で離してみろ。 本当に一発です。 見事にピタッとおさまりました。 こんな方法、 インターネットになんか載っていません。 辞書にも参考書にも載っていません。 でも、本当に必要なのは、 こういった「情報」なのだと、 思い知らされました。

『自己を見つめるデザイン』

 Twitterという主観性

ここ数日、こちらはドカ雪の日々です。 以前、記したように、 雪が降ったら只管雪掻き。 生きていくために必要な行為です。 しかし、一方で、私のTwitterのTL上には、 その雪に触れて喜ぶ声が。 雪がうっすらと積もったシーンを 写真で写して載せていたり、 もっと降れ〜、とつぶやいていたり。 色々なTwitterが流れて行きました。 ここで、記したいのは、 雪とはそういうものじゃない! というようなことでは、全くなく、 Twitterとは、 一般の人が使用する上では、 極めて主観性を重んじるメディアである、 という認識についてです。 それは匿名性だから、 ということでもないように思います。 匿名性とはいえ、 一般の人が使用する上ではフォロワーの多くは、 自分の実態(変な表現ですが)を知っているため、 これまでのBBCのような 無責任さが少なくなります。 そういった点で、Twitterの内容は、 所謂「心の声」のような、 純粋な発言だと言えるのかもしれません。 もしかしたらTwitterとは、 喜怒哀楽を的確に表出させる メディアと呼べるのかもしれません。

『自己を見つめるデザイン』

 "一つの美に触れて"

一面、白銀の世界。 今朝、大学に向かう最後のカーブを曲がると、 文字通り、白銀の世界になりました。 道も見えず、 僅かにわかるのは数メートル先まで見える轍のみ。 その瞬間、驚きや恐怖よりも先に、 美しい! と感じてしまった私は、 いつか危険なことになってしまいそうです。 テンションは一気に上がりつつも、 抑えめの速度で真っ直ぐ進んで行きました。 すると、白い壁をすり抜けるように、 奥にある山肌が少しずつ少しずつ見えてきました。 その現れ方、 現れる速度、 色合い、 震動、 音、 一切が美しく、 吸い込まれるような感覚に陥りました。 今朝ほどの大雪でなければ、 一度バックで無理矢理戻り、 携帯のムービーで録画したいと思うような、 まるで映画に出てくるよな、 そんなワンシーンでした。 こちらに来てから、 本当に沢山の自然に触れています。 特に冬になってからは、 改めて自然の脅威を感じたりもしています。 しかし、 今朝、見た、感じた、あの美しさは多分、 ずっと記憶の中に残るのだと思います。 説明や言い訳の必要がない、 そんな美しさを、久々に感じることができました。

『自己を見つめるデザイン』

 L-L-T Cylinder 1

卒業制作についてもう少し。 私が制作したのはスピーカーセットと記しましたが、 正確には4つの円筒形のスピーカーです。 所謂、無方向型と呼ばれるもので、 音が出るスピーカーは、 エンクロージャーに 直径100mm、長さ1200mmの円筒形のアクリルパイプを用いました。 それを立てた状態にし、 上面の開口部にスポッおさまるように、 フルレンジスピーカーユニットを取り付けていました。 エンクロージャーの素材がアクリルということもあり、 当初は透明なモノを想定していましたが、 実際に音を出してみるとそれほど良くはなく、 やはり減衰させる必要があるため、 内部にスポンジを設置することになりました。 しかし、その場合、一体どうやって円筒形の内面を見えなくするか。 それが悩みの種でした。

『自己を見つめるデザイン』

 プレゼの曲の記憶に寄せて

本日は、卒業制作・卒業論文の、 プレゼンテーションが行われました。 私の受け持たせていただいている学生は、 まだ卒業年ではないので、 今回は送り出す方ではありませんが、 他の研究室の副査を担当させていただきました。 今年のブログは思い出すことが多いですが、 また、今日も色々なことを思い出していました。 自分の卒業制作のプレゼンテーション、 一体どうだったろうか。 12年前、名古屋にいた私は、 卒業制作としてスピーカーのセットを制作しました。 詳細はさておき、そのプレゼンテーション、 一体、何の音楽を流そうか? (別に音楽を流さなくても勿論良いのですが、 当時はどうしても流したかったようです) あれやこれや考えた結果、 一つの曲を思い出しました。 自分たちが2年生の時にやった、 グループワークのプレゼで使った曲です。 そのグループワークを気に入っていた、 ということもありますが、 2年前の曲をなぜそのタイミングで思い出したのか、 今となっては思い出せません。 プレゼンテーション当日、 自分の順番になったとき、 友達に頼んで部屋の照明を消してもらいました。 私の制作したスピーカーセットの一つには、 音に合わせて光モノがあったため、 消灯と同時に音楽に合わせてスピーカーが光りました。 その後は何か色々とダメ出しをくらい、 悔しい思いもしましたが、 プレゼンテーションが終わった後で、 2年生の時に同じグループだった子から、 「あれって、あの時の曲だよね?!」と言われたのが、 とても嬉しかったことを、今でも覚えています。 今日、プレゼンテーションをした子達の内、 どれだけの学生が今日のことを覚えているか、 それはわかりません。 嬉しかったり、 疲れ切っていたり、 私のように喜びと悔しさと相まっていたり、 色々な感情がひしめき合っていたと思います。 でも、もしも、私のように 10年経っても忘れずにいたら、 それはその子の中で、 間違いなく価値を持って活きているのだと思います。

『自己を見つめるデザイン』

 時間・自間

その土地によって、 かかる時間が違うという話しを記しました。 昨日、午前午後と合計4時間ほど 雪掻きをしました。 暫くの間一人でやっていると 他の住民の方も出て来られて、 三人で結局最後の1時間半ほどやったところ、 アスファルトが見えるほど 雪をどけることができました。 正直、誰もそこまでやろうなどとは思っておらず、 やり切った後は自然に笑みがこぼれていました。 三人で雪を掻いている間、 誰とはなく、何とはなく、自然に話が続き、 何時の間にか終わっていた、という感じです。 一人で黙々とやっていた時との、 時間の過ぎ方の違いに驚かされました。 そして、もう一つ、ふと思ったことは、 土地によって違うのではない、ということ。 一人ひとり、 色々なことに必要な時間が異なるということ。 それは何かの仕事を終える時間や、 移動するための時間なども、 もちろんそうですが、 そんな難しいことではなく、 もっと簡単なこと。 話しをしていたとしても、 それを理解する時間、 次の話をする時間、 そういった、一つひとつの時間が、 人によって異なるという、 至極当たり前のことです。 当たり前のことですが、 それはきっと大切なことだと思います。

『自己を見つめるデザイン』

 小さな差異から見えること

これまで、名古屋・神奈川・大阪と、 引っ越してきましたが、 何れも、全く違う場所、 という意識が頭の中で働いていたためか、 場所による様々な違いに対して、 そこまで敏感ではありませんでした。 寧ろ、とても違う、ということを常に感じていました。 例えば、関東から大阪に移ったときは、 東京に流れている時間の流れの速度を、 強く感じました。 人間が多いのは勿論ですが、 それ以上に、時間の流れが速い、ということが、 印象的でした。 今、住んでいる場所は、 雪国ということから、頭のどこかで勝手に、 実家に似ている、 という意識が働いていたのだと思います。 そのため、ほんの小さな差異でも、 際立って見えてくるようです。 そして、それは逆に言えば、 自分が16年前に離れが故郷のことを、 如何に記憶しているかということを表しているように見え、 不思議な感覚になります。

『自己を見つめるデザイン』

 所変われば・・・

鰤起し。 先日記した、雪なのに雷が鳴る、というものが、 所謂「鰤起し」なのだと、 今日、教えていただきました。 鰤起しという単語は知っていても、 逆に言うと、言葉でしか知りませんでした。 また、雪の降り始めの頃、 霰がよく降るのも印象的でしたが、 それもこちらに特有のもののようです。 車に乗っていて、雪が降ってきたなと思ったら、 「コンコン・・・コン・・・コンコンコン・・・」と、 車の上から音が聞こえてきてきます。 「???」と思っていると、 ワイパーに沢山の霰が乗ってきました。 直径5mmほどのボール状の霰は、 あまりにも綺麗にカタチが揃っているため、 発泡スチロールのボールのようにしか見えません。 最初は本気で霰なのかどうか疑ったほどです。 思わず車を停め、手にとって見てしまいました。 所変われば品変わる、ではありませんが、 日本という、地球全体から見たら本当に小さな島国で、 しかも、同じ日本海側で、 北側と中間という違いしかないのに、 見方によってはこんなに違う部分があるのだなと、 考えさせられます。

『自己を見つめるデザイン』

 その地で生きるための時間

今日も雪は降り続いています。 実家の山形では、 雷を聞きながら、雪を見ることは なかったように思います。 何か不思議な感じです。 先日まで時間のことを記していました。 メールや電話などの、 即時的コミュニケーションツールにおける、 微少な遅延によるストレスについて書いていましたが、 今、生活している場所では、 また、違う時間が存在しています。 例えば、雪掻きの時間や、 車をゆっくり運転する時間。 雪のない生活では全く必要のない時間ですが、 ここでは、生きていくために必要な時間です。 そう考えると、雪が降る場所に住んでいる人だけが、 時間をロスしているようにも思えますが、 逆に言えば、 雪のない場所では、雪のある場所とは違った、 必要なことがあるのかも知れません。 全てが±0でバランスがとれているとは思いませんが、 どんなに時間がかかることでも、 その土地で必要なことをきちんと行うことは、 その地に生きる者として、 大切なコトなのだと感じます。

『自己を見つめるデザイン』

 "重さ"

雪国で生活をすると、 必ず、雪の重さを知ることになります。 雪が儚く消えると思っている人は、 外側からしか見ていないからです。 実際にそこで生活し、 同じ時間を過ごすようになると、 色々なモノが見えてきます。 それは、雪の重さのように、 大変な思いをするものかも知れませんが、 それが同時に、 次の季節に肥沃な大地を育んでくれるような、 優しさを持っているコトにも気が付くはずです。

『自己を見つめるデザイン』

 "音を吸い込み、光を放つ"

雪が積もった朝はとても静かに始まります。 地面に、屋根に積もった雪が音を吸収してくれる、 それは、無音室と同じ原理ですので、 実際、物理的静かなのだとは思いますが、 それとは何か違う力も働いているように感じます。 こちらの雪は実家の方に比べて、 大粒で軟らかいモノが多いようです。 実家の方では粉のように細かな雪が降ります。 そのため、 溶けにくく、積もりやすく、凍りやすく、滑りやすい。 そんな風に認識していたのですが、 昨日から今日にかけて降っている雪は、 ちょっと違うようです。 大粒の雪がどんどん積もっていきます。 融雪がしっかりしている道はまだ大丈夫ですが、 私が駐車している駐車場や、 その前の道は見事に真っ白に染まってしまいました。 車で行くこともできましたが、 今日は大学のバスを利用してみることに。 丁度、一年前、 同じバスを使って非常勤に通っていました。 全く知らない学生達に紛れ、 見知らぬ道を、 見慣れぬ場所へ、 たった15分程度でしたが、 当時は色々なコトを考えていました。 今朝、そのバスに乗ってみると、 学生達から自然と声をかけられ、 驚くと同時に、嬉しさが生まれました。

『自己を見つめるデザイン』

 "陽光に照らされて"

今朝、久しぶりに明るい太陽を仰ぎました。 こちらは冬の時期、なかなか晴れの日が訪れません。 曇りか雨か雪。 そんな毎日が続きますが、雪国生まれのせいか、 そこまで辛いとも感じずにおります。 単に鈍いだけなのかも知れませんが。 そんな中、今日は久々に快晴と言えるような空でした。 私の車は、普段、 朝日が当たらない場所に停まっています。 車内は寒く、窓は凍り付きます。 今朝もフロントガラスの氷がとれず、 ゴリゴリ削ったり、後は溶けるのを待っていました。 視界が得られたので車をスタートさせ、 ちょっと行ったところで日光を浴びたときです。 あっという間にフロントガラスの氷は溶け、 なくなってしまいました。 たったそれだけのことでしたが、 太陽ってすごいんだなぁ、と、 しみじみ感じられた出来事でした。 こちらに来て10ヶ月、 本当に自然のことを忘れていたのだな、 と思わされることの、なんと多いことでしょう。 この自然の中で、 人工物をデザインする。 多くのことを学ばせてもらっています。

『自己を見つめるデザイン』

 優れた性能

インターネットの速度は、 競技とは違うので、 ただ只管早さを求めるものではありません。 どんなcontextで、 どんなcontentsが求められているか、 それによって必要となる速度は異なるからです。 しかし、一方で、 優れた性能は、 無条件に新しい効能や機能を生み出すことがあります。 つまり、単純にこれまでのサービスの速度が向上する、 というだけでなく、 これまでとは異なる、 全く新しいサービスが発想される可能性があるからです。 デザインでは二つの「そうぞう」が重要です。 以前も記した、 「想像」と「創造」です。 今ないモノを想像し、全く新しいモノを創造する、 無から有を生み出す、などとも言われますが、 それは極めて理想的なコトです。 これがどれだけ難しいかは、 一度考えてみるだけで十二分に理解できると思います。

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 求めているモノを見失わない

考えてみると、 何もかけっこをしているわけではないので、 「どれだけ早いか!」ということは、 別な問題です。 時間的なモノに限って言えば、大切なことは、 そのコミュニケーション・ツールが、 求めている速度を実現できているか、 ということです。 そのことを置き去りにしてしまうと、 スペックばかりが先行してしまいます。 ウェブの閲覧速度などは、 速くなることで、 より大きな情報量を運ぶことができるようになり、 (速度の向上と同時に送れる量、の両方が関係していますが) それに合わせてサービス、 つまり、言い換えればコミュニケーションの方法も、 より大きな情報量を活用したモノへと変わっていきました。 メールなどは大変軽いデータですが、 ムービーデータや、 最近では、Ustreamなどのリアルタイムの映像データなど、 データは重くなる一方です。 以前も書いたように、 contentsとcontextの双方が、 両輪と成ってコミュニケーションのための環境を、 変えて言っていると言えます。

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 早さとは違うモノ

微視的な時間のずれよって生じるストレスとして、 電話やメールを取り上げましたが、 逆に、早過ぎて不思議な感覚になったものとして、 国際電話での経験を書きました。 もう一つ、 早過ぎるというよりも、 そのリアルタイム性に驚いたモノとしてChatがあります。 13年ほど前、Macで使用していたChatソフトの一つで、 キーボードを叩くと同時に、 相手の画面にも文字が表示されるモノを見たときは、 すごい!という感覚と、 何とも言えない気持ちの悪さも感じました。 打ち間違えたら恥ずかしい、というよりも、 何かもう少し大きな間違いにつながりそうな、 そんな恐怖だったと思います。 つまり、早さに対して脅威を感じるのではなく、 その速度は従来のコミュニケーションの感覚とは、 どこか違うモノを感じる、 という意味での恐怖だったのだと思います。

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 早いモノはより早く

ピカッと光ってから、 すぐにゴロゴロ、とくれば、 雷の距離が近いな、と皆考えます。 電話はすぐに声が届くけど、 手紙が届くには日数がかかる。 モノにはそれぞれ移動できる速度があり、 それによって手元に届くタイミングも変わる。 皆、わかっていることですが、 それが少しでも遅くなるとすぐに違和感を覚えます。 雷に関しては、少し遅れても、 「あ、まだ遠いんだな」と、 寧ろ安心感しか招きませんが、 例えば今では手紙でも、次の日に届かなければ 「あれ?」と感じます。 それでも重要な書類で無ければ、その次の日に届けば、 「出すのが遅かったかな」程度で終わります。 しかし、これが電話や電子メールになると、 「今」行った動作が、 「直後」に反映されなければ、 非常に強い違和感を感じます。 電話は話したらすぐに相手に聞こえるモノ。 メールは送ったらすぐに相手に届くモノ。 そういった慣れの中で生活しているから、 というものありますが、 元々、それらの利点がその速度にあるから、 ということも言えます。 売りが売りとして成立しないと不満が出ます。 しかも、考えてみると、 例えば、すぐに届くモノは、 ちょっとでも遅れるとストレスを覚えるのに、 一日二日かかるとわかっているモノは、 それから更に一日程度遅れても、 そこまでストレスを覚えない、 という点です。 以前、プロジェクトの関係で、 海外に出張に行かせてもらったことがありました。 その時、たまたま久しぶりに、 大学の時の後輩から、携帯に電話がかかってきました。 海外でも使えるようにしていたため、 そのサービスが使用されただけなのですが、 全く遅れることなく、リアルタイムに声が聞こえ、 こちらの声も遅れることなく 向こうに届いていることがわかったとき、 逆に違和感、というか不思議な気持ちになりました。 「海外にいるから帰ったらかけ直す」ことを伝えても、 最初は冗談を言っているようにしか思われませんでした。

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 学習する生き物

何事においても言えることですが、 どんな些細なことでも、 「今よりも少し良い状態」を知ってしまうと、 それを知る前には戻りにくいものです。 速い通信速度を知らなければ、 ほとんどの人がその速度で満足を感じます。 速度に不満を覚えても、 速い速度を知りさえしなければ、 または、それを実現する術はないのだと知れば、 諦めることができます。 しかし、実験的なモノにしろ、 当時の技術の粋を集めたモノにしろ、 一度でもそれ以上の速度を体感してしまえば、 もう遅い頃には戻れません。 多少誇張した表現に聞こえるかも知れませんが、 多かれ少なかれ、経験があることと思います。 携帯電話を最新機種に乗り換えたとたん、 前の機種の処理速度がとても遅く感じ、 使い慣れているとは言っても、 以前の機種に戻ろうとは思わないことでしょう。 工事が必要だからなんとなく面倒だな、 と思っていた光通信への移行も、 職場などで速い速度を経験すると、 家での通信に非常にストレスを覚えます。 全ての生物は学習します。 それによって進化をしてきたと考えられているからです。 たった一度の経験でも、 それが印象的であればあるほど、 頭が、身体が記憶するものです。 そして、身体が記憶したことは忘れにくく、 頭だけではなく、 心ともつながっているように感じます。 アダムとイブが、蛇に唆されて食べてしまった、 知恵の樹の果実。 知恵を得ることで、無垢を失い、 獲得した知恵によって、 生命の樹の果実も食べられることを危険視した神は、 原罪に対する罰として、 人間を楽園から追放します。 今の日本では、 昨年3月の地震に伴う震災の一部を、 そのように捉えている節があります。 しかし、本当にそうなのでしょうか。 知恵の実を得ることで、 豊かな生活を得、 便利な世の中を実現し、 何よりも、これまでの高度成長を可能にしてきました。 その知恵の実を、悪の権化のごとく遠ざけることは、 けして最良の状態への道ではないと考えます。

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 知恵の実

私が大学に入った頃、1996年当時の日本では、 まだインターネットは普及してなかったと思います。 その前年1995年に発売されたWindows95の登場によって、 比較的に利用者が増えた、と言われていますが、 そもそも、閲覧先であるウェブサイトそのものが、 まだそれほど存在していませんでした。 そんな中にも関わらず、以前も記したように、 私の通っていた大学では、 一人ひとりにメールアドレスを持たせ、 積極的に利用するように進めていました。 その時興味を持てた組と、そうでもなかった組は、 もしかしたら今でもその延長にいるのかも知れない、 と感じることもありますが、 私自身はそういったことに非常に興味があり、 訳もわからず、勉強の仕方も見様見真似で、 兎に角、触っていました。 勿論、Googleはまだ存在していません。 Yahoo!は既にありましたが、 それで検索できる項目数などたかが知れていました。 また、ほとんどのウェブサイトは英語でしたので、 英語の勉強になる、というよりも、 何処をクリックするの? 何が書かれているの? と、頭の上で?が回っているだけでした。 そんな頃の通信速度が、昨日話したように、 今の約800倍の時間掛かるモノでした。 かなり乱暴な言い方ですが、 オーダーは大体合っていると思います。 今、1秒で見られるモノを見るために、 約13分必要。 勿論、当時はほとんどのページが文章のみですし、 画像なども少ない上に、画質も低かったわけですから、 時間にストレスを感じる、というよりも、 目的のページが開いた、という喜びの方が、 大きかったと記憶しています。 画像を含んだページなどは、 開くまでに時間を要するため、 しばらくMacを放置して、 その間に本を読んだりしていました。 そもそも、ブラウザ用のソフトウェアを起動するのにも MacのRAMが足りず、 どうやって起動したら良いのかを人伝で聞き、 そのために必要なソフトウェアを、 フロッピーディスクに入れてもらう、 そんな頃でした。 その頃は、その頃の速度に満足しながら、 サービスを活用していました。 勿論、満足とは言っても、 不満がない、ということとは違います。 もっと早く表示されたら嬉しい、

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 速度比較

現在では、インターネットの速度、 ネットワークの通信速度は、 以前に比べてとても早くなっています。 ここでは、あまり正確な表現は関係ありませんが、 一応ネットワークの速度について、 もう少しだけまとめておきます。 速度とは、 物体が単位時間にどれだけ移動したかを表す量、 のことを指します。 ネットワークでは一般的に、 物体=データ:1bit、 単位時間=秒:1s、 となっており、通信速度は、 "bps" という単位で表されます。 そのため、各社はこういった値を出して、 ウチはこんなに早いですよ!と宣伝していますが、 この数字を見ても、他社との比較でしか類推できないため、 最近では、音楽データがどのくらいの時間で、 映像のデータがどのくらいの時間で見られるか、 ということを指標にしているところが多いようです。 そんなデータの通信速度を上げるために、 最近では光ファイバーを使った方式が広がってきました。 そのため、音楽はもとより、映像も画質さえ気にしなければ、 かなりの速度で閲覧可能になりました。 この光ファイバーの通信速度は約100Mbpsと言われています。 この辺の詳しいことは、 それこそ多くの方が説明しているので、ここでは省きます。 細かいことは後からまとめますので取り敢えず先に進みます。 では、以前はどうだったのでしょう。 私がインターネットに初めて触れたのは、 以前もちょっと触れましたが、 今から約16年前、1996年になります。 その頃、私が所属していた大学がどの方式だったのか、 正確には覚えていませんが、 多分、ISDNだったのではないかと推測されます。 (違っていたらごめんなさい) ISDNとは、Integrated Services Digital Networkの略で、 サービス総合ディジタル網と呼ばれているようです。 気になる(?)速度の方ですが、 ISDNの速度は約128kbpsと言われています。 大きさが違いすぎるので比較がしづらいですが、 結論から言ってしまうと、 ISDNは光通信の約800分の1、 つまり、現在の速度は、当時の速度の、 800倍の早さがあることになります。 今なら1秒で表示されるモノが、 800秒

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 僅かな損失

微視的(ミクロ)な時間の捉え方と、 巨視的(マクロ)な時間の捉え方を、 それぞれ考えてみます。 ある環境の中における生物は、 その環境から影響を受けて生きています。 ここで言う影響とは、 反応、 と言い換えた方がわかりやすいかも知れません。 例えば、イルカなどは、 水中にある波長の波を発生させ、 その反射を利用して周囲の状況を認識することが、 知られています。 コウモリなどもです。 見るという行為も同様です。 視覚を利用できる状態であれば、 その生物によって範囲は変化しますが、 可視光線と呼ばれる波長の波を受けて周囲の状況を認識します。 これらの現象は波の送信・受信を伴っているため、 微少ではありますが時間が必要になります。 多くの場合、その損失が少ないため、 気になることはありません。 しかし、ここでいう「損失が少ない」ということが、 今回の微視的な時間の捉え方に関係してきます。

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 時間のミクロとマクロ

求めている時間を裏切られた際の、 ストレスについて考えて見ますが、 その前に、時間そのものを考えてみます。 私は、唯一、時間だけが全ての者にとって、 平等に与えられているものである、 と教えられてきたと、以前記しました。 貧富の差を問わず、 時間は平等に流れます。 その使い方によって差が生まれてきます。 また、一方で、年代という考え方があります。 例えば、何歳になったら○○をしたい、 または、何歳になったら○○をするものである、 など、その歳に依る考え方があります。 私などは、そういった考えからは、 逸脱した生き方をしてしまっていますが、 このような時間に対しても、 同様に求めているもの、求められているものが、 あるように感じます。 昨日の考えと対比して考えるならば、 それぞれ、 ミクロな時間の捉え方、 マクロな時間の捉え方、 と呼べるかも知れません。

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 タイミング

昨年の3月11日、私にとって、 最も早い情報伝達ツールがTwitterだったことは、 以前、記しました。 そんなTwitterや、 ニュースサイトなどの情報から、 震源地が東北付近と聞いても、 家族はどうなっているのか、 実家はどうなっているのか、 親戚はどうなっているのか、 友人はどうなっているのか、 知人はどうなっているのか、 などの詳細情報は勿論入ってこず、 剰え、悪い予感、や、虫の知らせ、といった、 天然センサーの力が脆弱な私にとっては、 みんなの様子をイメージとして描くこともできず、 ただただ、情報を待つしかない、 という状況でした。 これは現代における最も一般的な慣れの一つなのでしょう。 いつでも情報を手に入れられることができる、 という状況に慣れてしまうと、 手に入れずらい、という状況に対して、 非常にストレスを感じます。 こういったことは、災害時、などの非常事態以外にも、 普段の生活でもよく遭遇します。 よく例に挙げられるのは、 ウェブサイトの閲覧に関するモノです。 ボタンをクリックしてから画面が表示されるまで、 どの程度の時間なら待っていることができるか。 携帯電話の高機能化が一気に進んだときも、 同様の問題が発生しました。 ボタンを押してから画面が遷移するまでに、 これまでの端末に比べて明らかに時間がかかる。 言ってみればほんの些細な時間です。 時間というよりも、一呼吸にも満たないものですが、 それでも明らかに多くの人がストレスを感じます。 この感覚について考えてみます。

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 慣れとは

人間にとって「慣れ」とは、 様々な負担を減らすために生じるものです。 例えば、同じ作業を繰り返す場合、 その都度、情報を新規に捉えるのではなく、 前回との差分で捉えるようになります。 前回と同様の情報はそのまま据え置きにして、 差分にのみ注意することによって、 処理する内容を減らすことができます。 中学校などではよく、 「良い慣れ」と 「悪い慣れ」という表現がされたかと思います。 良い慣れとは、慣れてきたことによって、 様々なイベントを円滑に行える様になることです。 一方、悪い慣れとは、慣れてきたことによって、 緊張感などが失われることを主に指します。 上述したように、 生物とは心身的な負担の軽減を目論んで、 慣れという方法を生み出しますが、 それは、その方が楽だからです。 (「楽」については何度か書かせていただきました) つまり、生きやすくするために、 楽を求めます。 逆に言えば、生命の危機が迫っている状態では、 楽、つまり慣れるようなことはできない。 考えてみれば当たり前の事ですが、 実際に体験してみないと、 そんな当たり前の事もわかりません。

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 帰省を通して

年末から年始にかけて、 実家、山形に帰省していました。 16年前に実家を離れてから、 大体、年に2回は実家に帰る機会をいただいてきました。 特に年末年始の帰省はお墓参りなどもあるため、 必ず帰るようにしています。 山形県は、東北六県の中でも、 被災規模は小さな方でした。 勿論、そうはいっても地域によっては、 大きな被害を被ったところもありますし、 何よりも、住民にとっては、 破損規模がそのまま被災規模とは言えません。 半年前、夏に帰省したときには、 2階で休んでいる時に、一度、大きな揺れを感じました。 私の住んでいる場所の震度は3でしたが、 3.11を直接体験していない私にとっては、 久々に感じる「大きな揺れ」でした。 急いで1階に降りると、 父、母が沈黙のまま、 テレビの地震速報を見つめていました。 以前、誰かと話しをしたときに、 余震が続く中でだんだんそれに慣れてしまい、 その結果、次の大きな地震の時に逃げ遅れる、 ということがあるのではないかという話題になりました。 しかし、実際のその現地に行き、 一緒に余震を体験してみて、 慣れる、という種類のものではないということが、 一瞬で理解できました。 まさに恐怖でしかありません。

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 常に最新のモノを

私が受けてきたデザインに関する講義は、 常にその時の最新のニュースを学ぶことができる、 まさにメディアでした。 講義がメディア、というのは、 違和感を覚える表現かも知れませんが、 私が受けて続けてきたものは、 そうだったと感じています。 講義の中に常に最新の情報を含む、 そんなことを考えながら発進されている方は、 一体どの程度いらっしゃるのでしょうか。 学問とは昔から変わらないモノを伝えるもの、 という考えを否定するモノではありません。 今、自分が学んでいるモノが、 実際の世界とはどのようにリンクしているのか、 今、自分が学んでいるモノは、 実際の世界ではどこまで進んでいるのか、 今、自分が学んでいるモノが、 実際の世界ではどういう自体になっているのか、 常に「今」を意識しながら学生に伝えていく、 それこそが私が学んで来たデザインの講義でした。 私はある講義を何年も繰り返し受講してきました。 それが毎年同じだと感じることは、 一度もありませんでした。 同様の内容を伝えることは勿論あります。 言葉の定義など、不変な事柄は勿論あります。 しかし、それを取り巻く情報は常に最新でした。 自分は、 「今」、 「何処で」、 「誰に」、 「何を」、 「どのように」、 伝えなければいけないのか。 常にそのことを考えながら講義をするという方法論を、 自分は経験を通して知っていたと気付かされました。

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 自分自身に興味を

学生の集中力を持続させる、 または、 興味を引き続けるために、 最も必要だと感じたのは、 話し手である自分自身が、 自分が話している内容に興味を持っているか、 ということです。 これは、今の自分だからできること、 または、 今の自分にはこれしか方法が見つけられない、 のかも知れませんが、 私にとっては大きな気づきでいた。 それまでは、自分が習ってきたこと、 教わってきたことを、如何に伝達するか、 ということに注意を払っていました。 それをできるだけ忠実に再現することに 注力してきたと言えます。 しかし、ある時から、 この方法では今の目の前にいる学生達には、 伝わりにくいかも知れない、 と感じるようになりました。 学力云々ということではなく、 彼らがこれまでに学んで来たことも、 育った風土も、 普段の生活も、 何もかも違うのに、 同じように伝えても絶対にわかりやすいとは言えない、 ということです。 そのことに気が付いてから、 改めてこれまで使用していたスライドを見直し、 構成を変え、 順番を変え、 要素を換えたり修正を行い、 つくりなおして講義に向かいました。 その結果、 私にとっては、知っている内容ではあっても、 説明方法を相手に合わせて変更しているため、 自分自身、内容を新鮮に感じるようになりました。 もしかしたら、 それが彼らにも通じたのではないかと推察しています。 授業に対する興味の持たれ方などが、 変化したように感じています。 また、「この子達を想定して構成を考えたけど、 ちゃんと伝わっているのかな?」 という視点で考えるようになったため、 細かな反応を感じ取れるようになったと思います。 講義をし慣れている方からすれば、 当たり前の事だとは思うのですが、 私にとっては思った以上に大きいモノでした。 しかし、自分で獲得したと思っていたこれらのことも、 実はそうではなかったとすぐに気付かされたのです。

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 変化に気が付く

3部構成から変わった理由の一つは、 「話さなければいけないことが多い!」 という、極めてネガティブな理由からです。 3部の配分は、おおよそ、 45分話して、30分作業をして、15分話題提供です。 当初は無理矢理でもこの時間を守っていましたが、 後期になると、実際それでは説明が不足している、 と感じるようになりました。 以前だったら、 もっと話したいことがある、 と思っても、学生の集中力を持続させることができず、 ということで断念していましたが、 後期になってからはその様子が変わりました。 ただ、 特に自分で何かを意図的に変えた覚えがなかったため、 しばらくしてから、 「あれ?」というように気が付く始末で、 本当に学生には申し訳ない限りです。 そのことについて、 自分の気づきを以降にまとめます。

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 3部構成

自分の持っている力で、 自分の中にある「手本とすべき講義」に 少しでも近づけようとして実現したのが、 "lecture" "practice" "topics" という3部で構成された講義です。 話し慣れていない私の場合、 lectureでどんなに話しをしても、 学生の集中力を持続させることは難しい。 しかし、その中で伝えた理論を、 その直後に演習として反復させることによって、 集中力の持続と、次に実際にやらなければいけない、 という緊張感からなんとか聞いてもらえます。 ただ、その二つだけでは、 「今」というものから取り残されてしまっている感があるので、 その日話した内容が実際の場面ではどうなっているのか、 ということを中心にtopicsというカタチで、 今のデザインを伝えるようにしています。 ただ、大変なのは学生の方で、 そもそも「○○論」という名前の講義は、 演習を含まないはずなので、課題を出した当初は 「え?!」という表情が多く見られました。 私の講義に関しては、 やりやすいようにやってもらってかまわない、 というお言葉をいただいたため、 理論だけにならないよう、 演習と組み合わせることにしちゃいました。 さて、そんな訳で前期はこの3部構成に落ち着くことで、 順調に進んできたのですが、 後期に入ってからこれに変化が生まれてきました。 一番大きな変化はlectureだけでも 90分もつようになったことです。 ただ、残念ながら(?)、 私のトークがうまくなったわけではありません。

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 手本となるモノ

そもそも(?)、私が受けてきたデザインの授業は、 2種類しかありません。 1)先生が作品を示しながら、それについて話しをされる。 もう一つは、 2)学生がプレゼンテーションを行い、それの講評を聞く。 いずれも「話し」が中心です。 それが普通のことであり、 それで大丈夫なのだと思っていたのが大きな間違いでした。 90分間話す、ということが如何に難しいことか。 しかも、相手の興味をひきながら話す、ということは、 本当に難しいことなのだと、 1回目の講義を終えた時点で思い知りました。 (いえ、終える前に思い知りました) 私はこれまで授業を見過ぎてしまったのでしょう。 90分間話し続けることが、普通のことだと思い込んでいました。 世の中を見渡して見れば「3分間相手の興味を引く方法」、 などという本が出ているわけですから、 その30倍もの時間、相手の興味を引くことが、 如何に難しいことか、すぐにわかりそうなものです。 これはまずい!とすぐに思い立ち、 「話術」に関する本を、数冊、付箋を付けながら読み込みました。 頭の中は「来週までに何とかしなければ」という思いで一杯です。 しかし、意外とこれがうまく働かない。 書籍の内容はわかりますし、 それで何とかなりそうなこともわかるのですが、 どうにも素直に受け入れられない。 なぜか? それは、その本が、どのように話せば良いのか、 ということを目的に書かれたものだからなのだと気が付きました。 改めて、自分がすべき事は 「講義をデザインすること」なのだと考えた時、 自分がこれまで受けてきたモノ、 それを手本とすべき、ということはわかりつつも、 それを如何に実現するのか、ということが問題でした。

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 時間の感覚

このブログの中でも、 過去に何度か「時間」に関することを 書かせていただきましたが、 私がいつも講義をさせていただく中で考えるのか、 この時間に関することです。 当初、私は講義を "lecture" "practice" "topics" の3部構成にして行っていました。 全てをlectureで進めて行くには、 全員の集中力を持続させることが難しく、 かといって、全てをpracticeにしてしまうと、 教えたいことがあまり教えられない。 ただ、lectureとpracticeのみにしてしまっても、 デザインに関する時事的な話しや、 ふとしたときに見つけた面白いことなどを盛り込みにくい、 と感じたためです。 lectureで所謂講義形式で内容を伝え、 practiceで実際にその内容を実践してもらい、 最後に応用編としてtopicsで、例えば、 「今のデザイン」というようなモノを伝えます。 いくつか試した中で、 この形式が一番進めやすいな、と、 前期が終わる頃までは感じていました。

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 初めての・・・

昨年の今日、 生まれて初めて講義をさせていただきました。 今でも覚えているのは、90分という時間の長さです。 これだけあれば足りるだろう、 と考えて準備していったスライド約120枚を、 30分とたたずに全て見せてしまったときは、 流石に背筋に冷たいモノが走りました。 スライド1枚を1分かけて説明することが、 如何に難しいことなのかを思い知りました。 写真を見せれば多少興味を示しますが、 それだけでは時間を稼げず、 かといって文字だけのスライドが続けば飽きてきてしまい、 説明しているこちらとしても辛くなってきます。 私にとって第1回目の講義、 それは、自分の中では完全に「負け」でした。 しかし、その負けたという認識が、 私にはとてもプラスに働いたと言えます。 私が学んで来たデザインで言うならば、 講義をする、ということは、 つまり、 どのように講義をデザインするのか、ということです。 まず、重要なことはその講義の目的(concept)です。 そして、 ある空間(where)の中で、 ある時間(when)の中で、 ある人達(who)に対して、 あるテーマ(what)を、 ある方法(how)を用いて、 伝達する。 これは完全にデザインです。 講義をデザインすれば良い、 と考える事によって、 私は自分のすべき事の一端を 見つけることができたように思います。

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 風土性による変化

昨年の9ヶ月間によって、 自分の中での人間の最小単位が、 「孤独」から「家族」へと変化しました。 これによって、自分が周囲に向ける意識そのものが、 ゆっくりとではありますが変化したと感じています。 何かモノをつくっていく場合、 個人で全てを完結することは、多くの場合困難です。 デザイナーは、発案から製造、販売などは勿論のこと、 廃棄に至るまで責任をもって考えを展開する必要があります。 しかし、 そのアイディアを実現していくためには、 様々な協力が必要になります。 それは極めて当たり前の事ですが、 多くの場合、そのバランスが難しいのだと考えます。 そんな当たり前のことを感じることができるようになったのは、 住まわせてもらっているこの地の風土性だと考えます 多くの地場産業が今でも残りつつも、 これからどうやって活きていくのかを考えている。 そういった多くの人と出会うことができたことで、 自分の中で変化が起こってきたのだと確信しています。

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 人間最小単位=家族

昨日、人間最小単位=家族、 と感じるようになった理由の一つとして、 「場所」を挙げました。 具体的に、且つ単純に言えば、 その理由の一つは、 周囲の環境から家族の話しを聞く機会が増えた、 というものです。 昨年の3月までの環境とは比べものにならないほど、 家族をテーマにした話しを聞く機会が増えました。 勿論、それはポジティブな話しばかりではありませんが、 どんな内容であれ、そこで話されることは、 「話し手」と「家族」の「関係」を題材にしたモノです。 喜んだ、 怒られた、 哀しかった、 楽しかった。 色々な感情がありますが、 つまり、一人ではない。独りではない。 実家に家族とともに住む、ということが多いこの場所では、 逆に一人になることが難しく、 強制的に独りであるとは考えにくくさせられる効果があります。 そこには、以前も引用させていただいた、 共通感覚に通じる考えがあると思います。

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 人間最小単位=

夕方、2階に上がり、本を読んでいると、 階下から、父と母の笑い声が聞こえてきました。 何か面白いテレビ番組でもやっていたのでしょう。 二人とも大きな声で笑っています。 16年前に実家から出てから、 年末年始はできるだけ帰省しようと思い、 そのようにさせてもらってきました。 そんな中で、先日、ふと、 自分の中での「家族」というものが 変わってきたように感じました。 「家族」という言葉の意味ではなく、 自分の中での認識の変化、と言えるのかも知れません。 もう10年以上前になりますが、 「人間最小単位=孤独」なのだな、 と考えていたことがあります。 極めて内向きな考え方で、 誰かに話した事もありませんでした。 自分でもびっくりするほど暗い話です。 しかし、先日、家族の笑い声を聞いたときに、 「あれ?」という感じで突然このときの事を思い出し、 自分の中で「人間最小単位=家族」なのかな、 と変化している事に気が付きました。 これは成長に伴う変化と、もう一つ、 この一年間自分を置いていただいた環境による変化が 大きいのではないかと考えています。

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 新年

家族が揃って新年を向かえることができたことに 心から感謝します。 本年もどうぞよろしくお願いします。 改めて、昨年を振り返ってみると、 如何に自分が新しい情報の中で翻弄されていたことか、 と考えさせられます。 お仕事をいただいたことで、 活動場所や活動時間が変わり、 関係する人が増え、 見えるモノ、聞こえる音、 匂い、食材、その他多くのことが変わりました。 そんな多くの情報の流れの中で、 兎に角吸収しようと、 只管もがいていました。 今年は、そのいただいたモノに対して、 少しでも返せて行けたらと考えています。 1年間という長いインプット期間を、 きちんと活かすことができるかどうか。 それが自分に求められていることであり、 自分自身が試されていることなのだと考えます。 まず、その一つとして、 このブログを復活させます。 どうぞよろしくお願いします。